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1月, 2021の投稿を表示しています

時間が作り上げた地上の奇跡、地下の神秘。カルスト台地を巡る3億年の旅 - 美祢

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カルスト台地、秋吉台の正体 「草原で、のどかに遊ぶ羊の群れ」か、それとも「荒野に立ち並ぶ無数の墓標」か。ここは日本最大のカルスト台地・秋吉台です。カルスト台地とは、雨水によって石灰岩が少しずつ浸食されて出来た台地のこと。羊や墓に例えられる石灰岩柱の凹凸は、長い年月をかけて雨水が作り出したものというから驚きです。驚きついでに言えば、秋吉台がある場所はもともとサンゴ礁でした。今でこそ海抜250mの山の中だが、3億5000万年から2億2000万年前頃まではアジア大陸に面した海の底でした。もちろん日本列島はまだありません。サンゴを始め、そこにすんでいた殻を持つ生物の死骸が大量に積み重なり、長い時間をかけて固まったものが一つの大きな石灰岩となりました。これが秋吉台の正体です。秋吉科学博物館の藤川将之学芸員は、秋吉台の生い立ちについて次のように説明します。 「海底火山の噴火により、海面近くに頂を持つ丘が誕生しました。丘の浅瀬には生物がすみ着き、次第にサンゴ礁が発達します。長い年月をかけてプレートが移動するのに伴い、サンゴ礁の浅瀬が海中に沈むと、その上に更に新しいサンゴがすみ着くということを繰り返し、巨大な塊が出来ていったのだと推測されています」 現在、秋吉台の石灰岩は約130平方kmにわたる広い範囲に分布し、その厚さは770m以上あると言われています。 時と雨水が作り上げた奇跡 美祢が誇る名所をもう一つ。秋吉台の地下100m、その南麓に大きく口を開ける秋芳洞は、東洋屈指の大鍾乳洞。大正15年に、皇太子であった昭和天皇がここを訪れ「秋芳洞」と命名しました。今から650年前に発見されましたが、秋吉台の周辺には確認されているだけで440の洞窟があり、まだ知られていないものも多数あるといいます。 これらの洞窟は、やはり石灰岩の浸食作用によって形成されました。岩の割れ目から雨水が地下にしみ込み、石灰岩の隙間に狭い地下水路が作られます。流れる水は周囲の石灰岩を溶かしながら水路径を広げ、次第に洞窟となっていきます。その後、洞窟の天井や壁面が石灰岩の溶食によって出来る洞窟生成物で装飾されるようになったものを一般に鍾乳洞と呼びます。洞窟生成物の主なものと言えば、天井からつららのように下がる鍾乳石と、鍾乳石に対して下から盛り上がるように出来た石筍が有名です。鍾乳石と石筍は上下相対するように伸びてい

江戸~東京の街を作った国産良材「西川材」に学ぶこと - 飯能

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江戸時代から重宝される都から最も近い林業地 埼玉県の南西部、荒川支流の入間川など数本の川が交わる一帯を西川地域と呼びます。この辺りは、古くから良質なヒノキやスギを育む林業地です。広く知られるようになるのは徳川5代将軍の頃。飯能周辺から切り出した木材で筏を組み江戸へ運んだため「江戸の西の方の川から来る木材」ということで、こうしたヒノキやスギは「西川材」と呼ばれるようになりました。 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事の多かった江戸の都は、常にたくさんの復興用材を必要としました。そんな一大マーケットへ、河川を利用して大量の木材を供給することが出来たのです。 最初は天然木を切り出していましたが、じきに本格的な植林が始まりました。山師による丁寧な育林作業のおかげもあり、真っすぐに伸びた良木を切り出すことが出来ました。江戸後期までに飯能の林業は大いに栄え、貨幣経済が発達。当時の武蔵国内において飯能は、小京都と呼ばれた川越に次ぐ大きな街となりました。 「筏による木材の運搬は大正年間まで続きました。その後は鉄道が主流になります。今では影も形もありませんが、昭和40年頃までは現在の飯能駅周辺に材木問屋が建ち並んでいました」 飯能で製材所を営む本橋武久さんは木材で繁栄した街の歴史をこう説明します。昭和40年と言えば、国内で住宅建築ラッシュが始まった頃。住宅を造るには国産材だけでは間に合わないということで、北米材や南洋材(ラワン材)など圧倒的な低価格と品質を併せ持った輸入材が本格的に入って来ました。 「それでも西川材は、節が少なく年輪が詰まった質の高さから、柱や内装用に使われました。昔の家屋の通し柱は20尺(6m)のものが多かったので、その高さになるまでに枝打ちを済ませ、節を出にくくしておくという山師の仕事が西川材の品質を保っていました」 と話すのは、西川地域の森林資源に詳しい協同組合フォレスト西川の大河原章吉理事長。ところが今の住宅は、柱や筋かいなどが壁面の外に現れることがないように覆い隠す大壁構造が主流。柱に節があろうがなかろうが関係がありません。結果、安価な材料が台頭し、西川材の価格も大きく下がりました。 「漢字の『木』の字を囲うと『困』という字になります。人目に触れなくなった木も、その木を扱う我々も困っているんですよ」 と大河原さんは冗談めかして胸の内を明かしてくれました

冷麺、じゃじゃ麺、わんこそば。麺都・盛岡で、三大麺を食べ尽くす - 盛岡

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麺好き市民に愛される三大麺 みちのく盛岡の名物料理と言えば、何と言っても麺料理。まず思い浮かぶのが、お椀に入ったそばを次々に食べるスタイルで知られる「わんこそば」。きしめんのような平打ち麺に肉味噌とキュウリ、紅ショウガをトッピングし、ラー油や酢、おろしショウガなどをかけて食べる「じゃじゃ麺」も、最近知名度を上げてきました。そして町の名を冠した「盛岡冷麺」。ジャガイモのデンプンと小麦粉で作る麺と、牛ベースのスープ、辛みの利いたキムチが調和した郷土が誇る味覚です。以上三つの麺料理は「盛岡三大麺」と称され、市内各所でこれらを看板メニューとする飲食店がひしめいています。 三大麺と呼ばれるようになったのはここ10年のこと。駅や市内の観光名所で三大麺のポスターやのぼりをよく見掛けるようになったことから、観光客向けのプロモーションのようにとられますが、必ずしもそうではありません。総務省統計局が実施した家計調査(2008年度調べ)でも、中華麺の消費量が全県庁所在地中で最も多かったのが盛岡市でした。独自の麺文化が根を下ろした背景には、麺料理をこよなく愛してきた盛岡の人々の気質があったのです。 苦肉のもてなし料理「わんこそば」 三大麺のうち最初にメジャーになったのはわんこそば。大勢でわいわい楽しく食べられるため、1970年代に全盛期を迎えた団体旅行にうってつけのメニューでした。 「一つの釜で茹でられるそばの量は限られています。これを団体客に出していては効率が悪い。そこで小分けにするスタイルが重宝されました」 とは、盛岡でわんこそばを提供する料理店初駒の明戸均さん。 かつて、米があまり取れなかった岩手県では何かめでたいことがあった時、小振りな椀に盛ったそばで訪れた人々をもてなしました。この時「おあげんせ(お上がりなさい)」と、何杯ものそばをお客さんに振る舞ったのが、わんこそばのルーツだと言われます。台所の釜がそれほど大きくなかった振る舞う側の事情が、そばを小分けにして大人数に振る舞いながら、次のそばを茹でるというスタイルを生み出しました。 ところで、一人でどのくらいの量を食べるものなのでしょう。 「観光客と地元の人で違います。観光客は女性で20~30杯、男性で40~50杯。それが地元の人だと女性で50~60杯、男性で70~80杯は食べます」(明戸さん) 話のタネに味わいたい観光客と違って

自然の恵みに感謝して、海に暮らしを賭ける志摩の海女漁 - 志摩

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海女小屋での至福のひととき 複雑に入り組んだ入り江や大小の島々が点在する志摩半島は、素潜りでアワビやサザエをとる海女漁が盛んな地域。自らの肉体と知恵を頼りに獲物をとらえる海女漁は『万葉集』にも登場する原初的な漁であるが、その頃から大きく形を変えることなく現在まで続いています。 太平洋に面した半島の東海岸。海に沿ってポツンポツンとトタン屋根の小屋が建っているのが目に入ります。そのうちの一つの小屋にウェットスーツ姿の女性が連なって入っていくのが見えました。女性たちは、その日の漁を終えたばかりの海女さんたち。小屋は海女小屋と呼ばれる彼女たちの休息場です。中には、ものすごい熱気が充満していました。見ると部屋の真ん中には巨大なストーブが置かれ、一人の海女さんが薪をくべていました。 「海女はね、地獄の商売と言われるの。海の中で収縮した血管を元に戻すために、どんなに外が暑くてもこうして火に当たらないといけないから」 と、その海女さんが教えてくれました。少なくとも1時間半はじっと火に当たらなくてはならず、これがなかなか大変なことなのです。それでも海女たちは「海女小屋は天国」だと口をそろえます。 「日常の生活から解放されて、気の合う仲間と話し合ったり、食べる物を分け合ったり、楽しいことも辛いことも分かち合えるのが海女小屋なの」 仕事が終わった後、ここでの団らんのひとときほど、楽しくくつろげる時間はないそうです。 徒人と舟人、二つの海女漁 志摩の海女漁といえば、なんと言ってもメインはアワビ。県の規則で元日から9月14日までと漁期が定められていますが、地区によっては更に漁期を規制しています。市内のある地域では3月16日がアワビの解禁日でした。また、漁協によっては、潜水の日数や回数、時間制限などを決めている所もあり、資源を絶やさない取り組みが徹底されています。 漁の方法は2種類あります。一つは、木製の磯樽を浮きにして5~8mと比較的浅瀬を自力で潜水して漁を行う徒人という方法。徒人は陸から泳いで漁場に出る場合が多いのですが、漁場が遠い地区では舟に乗り合い沖へ出ます。桶を持って大勢で泳ぐ海女の姿はポスターや絵はがきなどで紹介され、志摩の風物詩として知られるようになりました。最近では、磯樽に代わってタンポと呼ばれる発泡スチロール製の浮輪が使われています。 もう一つの漁法は、他の地域には見られない

料理の名引き立役もここでは主役。爽やかに香るカボスの産地を訪ねて - 竹田

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産地に暮らす人々は何にでも搾るカボス好き 大分県西部、奥豊後の中核都市である竹田市は、鉢の底のような盆地に開けた町です。くじゅう連山、祖母山、阿蘇外輪山など四方を大きな山に囲まれているためトンネルが多く、山に空いた無数の穴から「レンコン町」とも呼ばれます。 山間部の町らしく、昼夜の寒暖の差が大きく、そんな気候が県の特産物であるカボスの生育に適しています。竹田に暮らす人々にとってカボスは昔から身近な存在で、食卓に欠かすことの出来ない食材の代表格です。 作付けが始まったのは江戸時代からで、昭和40年代になってから県が積極的に奨励したことが、栽培面積増大の大きな要因となっています。民家の軒先にもカボスの木が植えられ、さまざまな料理の酸味や香り付けに利用されてきました。 焼き魚の薬味として、あるいは鍋料理、天ぷらのポン酢や酢の物に。揚げ物に搾れば油っこさを中和し食べやすくなるし、皮を吸い物に浮かせれば爽やかな香りが立ち込め、焼酎に適量の果汁を加えるとひと味違った味を楽しめます。また、味噌汁や新鮮な刺身にもたっぷりとカボスを搾るのが竹田流です。 竹田の人たちがいかにカボス好きか、それにまつわるこんな話がある。 県内の海沿いにある町へ新鮮な魚を食べに出掛ける時、竹田の人は必ずカボスを持参するそうだ。もちろん出て来た料理にかけるためです。料理屋自慢の新鮮な刺身にも、ちゅうちょなくカボスを搾るものだから、「私の店には酢をかけて食べなければならない魚はいない」とお店の主人が言ったといいます。 冷蔵技術と流通が発展した現代と違って、その昔、魚が竹田まで運ばれて来る間にどうしても生きが下がってしまいます。だから生魚に施す防腐手段として、酢をかける代わりにカボスを搾ったのだそうです。こうした習慣が長い年月の間に形を変えて今に残されているのかもしれません。 いずれにしても竹田の人々は、実にさまざまな食べ物にカボスを使います。特に露地ものの出荷が始まるお盆過ぎからは、手を伸ばせばカボスに当たるといった状態に。秋から冬にかけて利用頻度はますます高くなっていきます。 1年中楽しめるみずみずしい果汁と豊かな香り 選果場では、朝早くからカボスの箱詰め作業が行われていました。ベルトコンベアの上を流れるみずみずしいカボスは色づきや傷がチェックされ、みるみるうちに仕分けられていきました。 選り分けられた傷も

西条人が待ちに待つ平成によみがえる元禄絵巻 - 西条

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西条っ子を熱くする最大の年中行事 彼岸花が咲き、キンモクセイの香りが辺りに漂い始めると、祭り好きなこの町の人々はソワソワしだします。中学生が練習する太鼓の音色が聞こえてこようものなら、もう仕事も手に付きません。落ち着かないのは住人だけではありません。「盆と正月には帰らないが、祭りのためなら」と、全国に散らばる西条出身者が祭りに合わせて帰省します。 これほどまでに西条人を熱くさせる年中行事、それが西条祭りです。市内にある嘉母神社、石岡神社、伊曽乃神社、飯積神社の四つの神社で行われる秋の大祭の総称ですが、一般に規模が最も大きい伊曽乃神社の祭礼を指して西条祭りと呼んでいます。 伊曽乃神社で大祭が開かれるのは、10月15、16日の2日間。だんじりや、みこしと呼ばれる屋台の一種が、町中を勇壮に練り歩く姿見たさに多くの観光客が訪れます。町では学校や多くの企業がこの期間はお休み。商店街の店はどこもシャッターが下りていて、張り紙には「祭りのため休業」と書かれていました。飲食店や旅館まで店を閉め、主人らはだんじりのかき夫(担ぎ手)に、奥様方は炊き出しに駆り出されるので、遠来の客泣かせの祭りとしても知られています。 だんじりは高さ約5m、重さ約800kg。白木か漆塗りで作られた2階建て、3階建ての家型で、四方には武者絵や花鳥などの彫刻が施されています。台車に載せて押しながら移動することもありますが、西条のだんじりは他の地域とは異なり、肩に担いで行進します。 一方、左右二つの車輪が付いたみこしは重さが3t弱もあります。全体が刺繍で飾られていて、頂上に人が乗るので、見た目でだんじりと区別出来ます。伊曽乃神社にはだんじりが77台、みこしが4台奉納されます。一つの神社に奉納される屋台の数としては他に例がありません。 殿様も愛した動く元禄絵巻 発祥は定かではありませんが、伝承では宝暦11(1761)年頃、文献にだんじりが登場します。石岡神社の別当寺であった吉祥寺の住職が河内の誉田八幡社の藤だんじりを見て、これに似たものを竹で作り、花籠だんじりを奉納したのが始まりと伝えられています。後に近郷の神社にも奉納され、東予一円に広まったといいます。歴代の西条藩主も支持したため、次第に盛んになりました。西条のお殿様がいかに祭りに熱を上げていたかが分かるエピソードが残っています。 江戸城の大広間で、隣に座った

水中を舞う「生きる芸術品」錦鯉発祥の地を訪ねる - 長岡

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発祥の地で盛況の錦鯉品評会 10月24日、錦鯉発祥の地である長岡市山古志で第57回長岡市錦鯉品評会が開催されました。会場となった山古志支所前には仮設プールが並び、優雅に泳ぐ「生きる芸術品」を目当てに大勢の来場者が詰めかけました。建物に掲げられた横断幕に「中越大震災復興祈願」となければ、6年前の前日にこの町が壊滅的な被害を受けたとはにわかに信じられません。震災によって一時は廃業が相次いだ養鯉業ですが、こうして品評会が開催されるまでに回復しています。全国大会を筆頭に錦鯉の品評会は各県で行われていますが、この日行われたのは、長岡市内の生産者が出品するもの。もともと新潟県内の養鯉者数は他の都道府県に比べダントツに多いのですが、さすがは発祥の地、70以上の生産者が自慢の錦鯉を会場に持ち込みました。 ひとくちに「錦鯉」と呼んでいますが、白地に赤い模様が入ったものや、紅白模様に墨が混じったもの、全身に金属のような光沢を持つものなど細分化するとその品種は80以上にも及びます。品評会では、最初に体長で8クラスに分けられた後、各クラスで品種ごとに優劣を付けます。厳しい目で錦鯉を見極めるのは、組合から選出された15人の審査員。審査は基準に則って行われますが、模様の形状、色の鮮やかさなど誰が見ても美しいと感じる鯉はだいたい評価が高くなります。こうした品評会で良い賞を取れば、専門誌が取り上げたり、仲卸業者の間で評判が高まります。良い錦鯉を作って賞を取ることが、生産者にとって、どんな宣伝にも勝るアピールとなるのです。 新潟が生んだ世界の観賞魚 錦鯉のあの色鮮やかさはどのようにして出来たのでしょうか。その始まりは江戸中期にさかのぼります。 新潟県のほぼ中央に位置する山古志周辺は、昔から国内有数の豪雪地帯で、冬には外界との交通が一切閉ざされてしまうため「陸の孤島」と呼ばれていました。険しい山々に囲まれた平地の少ない土地であるため、人々は山肌に棚田を開かなければ作物を育てられませんでした。海から離れた山間部ということもあり、なかなか海産物が手に入りません。そこで、棚田に水を引く貯水池を利用し、冬の間のたんぱく源として真鯉を飼育することを思い付きます。 すると、池で放し飼いにされていた食用の真鯉の中に、ある日突然変異で色が付いた鯉が生まれました。わずかな色彩を持った鯉同士を掛け合わせ、より色の鮮やかな

本物と見紛うほどの精巧なミニチュアは、静岡に根付いた工芸技術の集大成 - 静岡

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カタログの代わりとなった婚礼調度のミニチュア 3月のひな祭りの主役と言えば、豪華絢爛な衣装を身にまとった男女一対の内裏びなと相場は決まっています。 が、今回の主役は人形ではなく、いつもは脇役のお道具です。箪笥に長持、鏡台、御所車(牛車)、高杯や椀など、小さいながらも本物とほぼ同じ製法で作られる「ひな具」と呼ばれる装飾美術品は、静岡市が国内生産量の約9割を占めています。 ところでこのひな具、今でこそひな壇を華やかに飾るものですが、もともとの用途は異なります。国立博物館発行の専門書をひも解くと、ひな具とは「大名息女の婚礼調度のひな形」とあります。つまり、嫁入り道具のミニチュアです。 大名の息女が婚礼する際に嫁入り道具を誂え、事前に嫁ぎ先にその内容を知らせるのですが、調度品は数十種類から多い時で数百種にも及びます。数量も大きさもあるため、持ち運ぶことが出来ません。 そこで、今でいうカタログの代わりに本物と同じ作り方で小さなひな形を作り、嫁入りする大名家の家老が先方の大名家へ持ち込んで婚礼調度を披露しました。これがひな具の本来の用途です。 だからひな具の箪笥の中には、四季の着物から装身具、小物に至るすべてが入っていました。最近ではそれほど手の込んだものは見られなくなりましたが、大正時代に作られた高松宮妃殿下のひな具はこうした伝統を受け継ぎ、中身まで作られています。 静岡でひな具が盛んに作られるようになったのは江戸初期。徳川家康が死去した後、その遺命により当時の最高の技術と芸術をもって久能山東照宮が造営されました。また幕府の祈願所として浅間神社の大造営も行われ、全国から木地指物、挽物、漆器、蒔絵といった腕利きの職人が集められました。 職人たちの中には建物が完成した後も駿府に残る者が現れ、その優れた技術を広めていきました。中でも漆器作りは温暖多湿な気候が合っていたこともあり、この地の産業として定着。後にこうした漆職人らがひな具の製作にかかわることになります。 装飾品であるひな具には、華麗な加飾方法である蒔絵もふんだんに施されました。静岡を中心に発達した蒔絵は、漆面に金や銀、錫粉を蒔きつける他、卵殻や貝を張って加飾します。 デザインの斬新さと変わり塗の多様さが相まって、「蒔絵だけは静岡で」と言われるほど技術的に高く評価されています。ミニチュアとはいえ、唐草模様や花鳥風月が描かれた