華やかな大航海時代の面影と、キリスト教受難の歴史を持つ港町 - 平戸

かくれキリシタン信仰の誕生

東シナ海から玄界灘に抜ける海上交通の要衝だったことから、古来、大陸との交易港として栄え、戦国時代には南蛮貿易の拠点となった港町平戸。この町を語る上で欠かすことが出来ないのが、キリスト教の伝来と弾圧の歴史です。平戸にキリスト教(カトリック)が伝来したのは1550年のこと。西欧の船として初めてポルトガル船が平戸に入港したのがきっかけです。この知らせは、前年に鹿児島に上陸していたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの元にも届きます。思うように進まない鹿児島での布教を急きょ取りやめ、すぐに平戸に入ったザビエルは領主の松浦隆信に丁重に迎えられ、領内での布教を認められました。ザビエルが布教を許されたのは、ポルトガル国王の庇護下にあったイエズス会が布教の交換条件として、利益の多いポルトガル船との南蛮貿易の仲介役を申し出たためです。これ以後、平戸港には定期的にポルトガル船が寄港し始め、領内では宣教師による布教が盛んに行われました。

ところが、急速に増えていく信者を目の当たりにした隆信は、領主の力が及ばなくなることを恐れ、これまで布教に寛容だった態度を一変させます。豊臣秀吉が発した伴天連追放令(1587年)以降、キリシタン(キリスト教徒のこと)への禁教政策が強まっていたこともあり、平戸でも厳しい弾圧が行われました。宣教師や信者は捕らえられ、国外に追放されるか処刑されました。迫害を恐れ、キリスト教を捨て仏教徒になる者もいましたが、中には表向きは神仏を祀りながら密かにキリシタンの信仰を守る潜伏信者も生まれました。しかし、宣教師はことごとく国外に追放されてしまったため、キリスト教の教義は時間がたつにつれ希薄になっていきました。その一方で、地元で殉教した者たちに対する崇敬の念が潜伏信者らの精神的なよりどころとなっていきました。こうしてこの地に伝わったカトリックは、独特の信仰形態「かくれキリシタン信仰」へと変容していくのです。

田平天主堂

かくれキリシタンの島

1873年に明治政府がキリシタン禁制の高札を撤廃すると、約250年ぶりにヨーロッパから神父が来日し、カトリックの布教を始めました。各地の潜伏信者らは、カトリックへ改宗することを求める神父の言葉から、自分たちの信仰が再布教されたカトリックとかなり違っていることを知って戸惑います。しかし、カトリックへの改宗はすなわち、先祖代々の信仰を捨てることを意味します。神父には異教の祭壇にしか見えない仏壇も、潜伏信者にとっては弾圧と殉教の苦難を乗り越えてきた先祖を祀る神聖なものでした。どうしてもこれを捨てるわけにはいかず、潜伏時代のかくれキリシタン信仰をそのまま続ける道を選んだ者も少なくありません。かつては長崎県下の平戸、外海、五島地方にこうしたかくれキリシタンが暮らす集落が数多くありましたが、今では平戸島の北西に浮かぶ生月島(平戸市)などにいくつか残るのみとなってしまいました。それにしても世界宗教史上類のないほどの長い歳月、宣教師なしで、しかも弾圧の手を逃れながら信仰を守り続けた人々の信仰心のあつさには敬服するばかりです。

生月島では、御前様と呼ばれる聖画などからなる御神体を祀りました。御前様は部屋の奥や納戸でこっそり祀られていたため「納戸神」とも呼ばれました。元は西洋風に描かれていましたが、描き直すうちに日本風に変化したというから面白いものです。ちょんまげを結った聖人や、大きな丸髷を結ったマリアの絵もあるそうです。

かくれキリシタンが今も唱え続けているのが「オラショ」。ラテン語だということも分からないまま子孫へ口伝えで伝えられた祈りの文句です。オラショを声に出して唱えることがそのまま神への祈りとなりました。

かくれキリシタン信仰は一般に「日本に伝わった中世のキリシタン信仰が変容しながら今日に残されたもの」と定義されますが、最近の見方は少し違うようです。生月島のかくれキリシタン信仰に詳しい生月町博物館島の館の中園成生学芸員は次のように話します。


「現在のカトリックから見れば、確かにかくれキリシタンの信仰は一風変わって映るでしょう。しかしヨーロッパのカトリックも実はこの200年の間に宗教改革などを経て大きく変容しています。むしろ『かくれキリシタン』の方にこそ、中世の土着的なカトリックの形態が比較的原型に近い形で保存されていると言われています」

かつては1万人以上いた島の人口の8割がかくれキリシタン信者とされていた生月島ですが、現在は7000人の人口の1割弱に過ぎません。島の基幹産業(遠洋漁業・港湾建設)の不振で後継者が島を出たことが大きな原因です。若者の信仰に対する意識の低下も手伝って、信仰がなかなか継承出来ない厳しい時代を迎えています。

教会と大航海時代の面影が残る町

禁教令の廃止後、カトリックに改宗した人々の間では、聖堂建設の機運が高まりました。平戸島と九州本土を隔てる平戸瀬戸を望む丘の上に建つ赤レンガの田平天主堂もそんな人々の思いが作り上げた教会です。貧しい食料事情の中、信者は苦しい生活を強いられながら収入の3分の2を積み立ててこの教会建設のために使ったといいます。また、教会に使われているレンガや石段の石は、浜から2kmの急坂を登って信者らが運んだものです。こうして1927年、多くの人々の思いが込められた天主堂が竣工しました。設計・施工は、長崎を始め九州各地で数多くの教会建築に携わった鉄川与助によるものです。建物の中に入ると、コウモリ傘を広げたような木造アーチ式の天井と、絵のように美しいステンドグラスが印象的です。田平天主堂以外にも平戸市内には、個性豊かなカトリック教会が点在し、今も信者たちの大切な祈りの場となっています。

教会はいずれも明治以降に出来たものですが、かつての大航海時代の面影も町のそこかしこに残っています。例えばお菓子が良い例です。カスドースは、ポルトガルとの交易によって伝えられた南蛮菓子の一つで、松浦家に伝わる江戸時代のお菓子の文献にも記録されている平戸が誇る銘菓です。

「ポルトガルからカステラが入って来た時に、長い航海中の保存食となる固くなったカステラの食べ方の一つとして平戸で紹介されたのではないかと考えられています」

とは、代々松浦家御用菓子司を務めたつたや総本家の松尾俊行さん。当時では贅沢な砂糖や卵がふんだんに使われており、明治に入るまで位の高い人しか食べることが許されませんでした。カステラを切り分け、卵黄にくぐらせ、糖蜜に浸け、更にグラニュー糖をまぶして作ります。材料を聞くと「甘過ぎるのでは」と心配になりますが、意外にさっぱり上品な甘さでした。

舶来のスイーツに、世界的な宗教、そして洋の東西を問わず珍しいものが流入する当時の平戸は、最初のポルトガル船の来航から、オランダ商館が出島へ移るまでの約90年という短い間ではありましたが、日本最先端の都市であったことは間違いありません。

2011年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)



●聖フランシスコ・ザビエル記念教会の尖塔と、光明寺や瑞雲寺の瓦屋根が連なる平戸を代表する風景



●かくれキリシタンの信仰を伝承する生月島



●生月島のかくれキリシタン信者の家では、奥まった部屋に御前様を祀った(写真:平戸市生月町博物館「島の館」)



●平戸城と、禁教時代をしのばせる瓦屋根の城下町 

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