水中を舞う「生きる芸術品」錦鯉発祥の地を訪ねる - 長岡
発祥の地で盛況の錦鯉品評会
10月24日、錦鯉発祥の地である長岡市山古志で第57回長岡市錦鯉品評会が開催されました。会場となった山古志支所前には仮設プールが並び、優雅に泳ぐ「生きる芸術品」を目当てに大勢の来場者が詰めかけました。建物に掲げられた横断幕に「中越大震災復興祈願」となければ、6年前の前日にこの町が壊滅的な被害を受けたとはにわかに信じられません。震災によって一時は廃業が相次いだ養鯉業ですが、こうして品評会が開催されるまでに回復しています。全国大会を筆頭に錦鯉の品評会は各県で行われていますが、この日行われたのは、長岡市内の生産者が出品するもの。もともと新潟県内の養鯉者数は他の都道府県に比べダントツに多いのですが、さすがは発祥の地、70以上の生産者が自慢の錦鯉を会場に持ち込みました。
ひとくちに「錦鯉」と呼んでいますが、白地に赤い模様が入ったものや、紅白模様に墨が混じったもの、全身に金属のような光沢を持つものなど細分化するとその品種は80以上にも及びます。品評会では、最初に体長で8クラスに分けられた後、各クラスで品種ごとに優劣を付けます。厳しい目で錦鯉を見極めるのは、組合から選出された15人の審査員。審査は基準に則って行われますが、模様の形状、色の鮮やかさなど誰が見ても美しいと感じる鯉はだいたい評価が高くなります。こうした品評会で良い賞を取れば、専門誌が取り上げたり、仲卸業者の間で評判が高まります。良い錦鯉を作って賞を取ることが、生産者にとって、どんな宣伝にも勝るアピールとなるのです。
新潟が生んだ世界の観賞魚
錦鯉のあの色鮮やかさはどのようにして出来たのでしょうか。その始まりは江戸中期にさかのぼります。
新潟県のほぼ中央に位置する山古志周辺は、昔から国内有数の豪雪地帯で、冬には外界との交通が一切閉ざされてしまうため「陸の孤島」と呼ばれていました。険しい山々に囲まれた平地の少ない土地であるため、人々は山肌に棚田を開かなければ作物を育てられませんでした。海から離れた山間部ということもあり、なかなか海産物が手に入りません。そこで、棚田に水を引く貯水池を利用し、冬の間のたんぱく源として真鯉を飼育することを思い付きます。
すると、池で放し飼いにされていた食用の真鯉の中に、ある日突然変異で色が付いた鯉が生まれました。わずかな色彩を持った鯉同士を掛け合わせ、より色の鮮やかな鯉を生み出し、更にまた掛け合わせ、200年もの長きにわたって交配を重ねた結果が、今、私たちが鑑賞している錦鯉です。
だから理論上、昔の錦鯉より今の錦鯉の方が美しくなります。実際、江戸時代の絵画に描かれている錦鯉は、今の基準ではそれほど商品価値のない模様であることが多いといいます。
ともあれ山古志原産の錦鯉はその後、さまざまな品種に枝分かれし、バラエティに富んだ色彩を楽しめる趣味として国内はもとより世界各地に広まっていきました。海外ではカラフルな色彩と、大きく育つことが受け「世界最大のガーデンフィッシュ」と呼ばれ、愛好家を増やし続けています。
円高の影響で例年よりも少ないといいますが、山古志支所での品評会でも外国人の姿が目立ちました。また、長岡の市街地から山古志へ向かう道中、英語で表記された錦鯉の看板をいくつも見かけました。看板は、養鯉場へ直接足を運ぶ外国人のためのもの。主に中国、台湾、ヨーロッパなどから、自分の目で錦鯉を選びに訪れる愛好家が後を絶ちません。
前日の品評会会場で、良い鯉を生産する養鯉場と判断したのか、市内の九重養鯉場に2組の外国人客が訪れました。自宅の日本庭園を泳ぐ姿を思い浮かべているのか、プールをじっとのぞき込んでじっくりと錦鯉を見定めていました。
華咲く時期を見極めて
雪溶けの4月末、屋根付きの小屋で冬を越した錦鯉が、屋外の泥池に放される。山古志周辺の池は泥質のためか、錦鯉の色付き、鮮やかさが格段に良くなるといいます。10月半ばまでこの泥池で放し飼いされますが、その間も水の管理だけは怠ることが出来ないと、九重養鯉場の田中重雄さんは言います。
「いかに酸素がたくさん入った水で育てるか。ここが生産者の腕の見せどころ。酸素がたくさんあれば、鯉が活発に動く。動けばお腹が減るのでエサをよく食べる。食べるとより大きく育つ。いくら高価なエサを与えても、連鎖の元になる水作りがまずいとダメなんです」
5月の連休が終わると、産卵の準備です。仮設テントで親鯉に産卵させ、4~5日で孵化した稚魚をすぐ池に放ちます。ひと腹で何十万匹という稚魚が生まれますが、生後40日後には、良い錦鯉になりそうなものとそうでないものに選別されます。今年放流した300万匹のうち、錦鯉として商品になるのはせいぜい1万2000匹。
奇麗になる鯉は、ある程度は事前に分かります。まずは血統。養鯉場では、優れた親鯉が種付け用に別で育てられています。親の持つ色合いがうまく出れば良い錦鯉が生まれるのですが、なかなか簡単にはいきません。
「人間と同じで悪いところばかり親に似る。難しいものです」
と田中さんは苦笑いしていました。
錦鯉にも早稲と晩生があります。小さい時に奇麗な個体は、成長するにつれて色や模様が壊れやすく、逆に小さいうちは模様がぼけていますが、だんだん鮮やかになっていくものもいます。5年も6年も奇麗なままというのはまれで、どんな錦鯉でも旬はせいぜい2~3年。だから生産者は、鯉が華咲く時期を見極め、若鯉を手塩に掛けて育て上げます。
そんな予測がものをいう養鯉業において、新潟県中越地震は予測不能の惨事でした。保有する泥池の多くが崩壊し、ほとんどの親鯉が死んでしまいました。養鯉を再開するため、一から大金を投資すべきか、そんな選択肢を突きつけられて生産をやめた人もいます。ただ、崩壊した山間部の池が復旧する間、新たに平地に池を作ってしのいだため、山の池が復旧した時、池の総面積は震災以前より増えていました。結果、生産量は以前より拡大し、今に至っています。
錦鯉同様、震災を乗り越えた山古志名物に「牛の角突き」があります。江戸時代から行われている闘牛の一種で、震災で一時開催が中断されていましたが、2006年に再開。牛と牛とが闘志むき出しで頭を突き合わせる熱闘ぶりで多くの人を魅了しています。聞くと、この牛は短角牛と言って、本来は食用になる牛。千頭、万頭に1頭の確率で素質のあるものだけが子牛の時から闘牛用に育てられます。それにしてもこの牛といい、錦鯉といい、ここ山古志で生き抜くのは並大抵のことではありません。牛は強くなければ、鯉は美しくなければ生きていく資格はないのですから。つくづく人間に生まれてよかったと思います。
2011年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)
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