白河に春を告げ、人々に福を呼ぶ縁起物 - 白河

白河だるま

だるま市は、春の風物詩

毎年2月11日の建国記念日、白河では春の訪れを告げる伝統の「白河だるま市」が開かれます。市内の目抜き通りには約700軒の露店が軒を連ね、店先ではだるま売りの威勢のよい掛け声が響きます。福を求めて県内外から15万人が訪れ、だるまの表情をじっくりと見比べながら買い求めていきます。

江戸時代中期、寛政の改革で知られる白河藩主の松平定信が、旧正月の市に縁起物として売らせたのがだるま市の起源と言われます。

白河だるまの正式名称は「白河鶴亀松竹梅だるま」。意匠は定信のお抱え絵師であった谷文晁が考案したと伝えられ、眉は鶴、ひげは亀、顔の両側に松と梅、顎ひげに竹をあしらい、全体的に福々しいのが特徴です。

厄除けと家内安全の利益がある赤だるまと、開運の利益がある白だるまの2種類が作られます。サイズは21段階あり、小さいものから買い始めて年々大きなものを買い足していくため、白河ではだるまがいくつも飾ってあるお宅は珍しくありません。

現在、白河市内には2軒の製作所があり、それぞれ顔の模様が微妙に異なるだるまを作っています。だるま市に向け、仕上げの作業が佳境を迎えた1月の末、そのうちの1軒、佐川だるま製造所を訪ねました。

白河だるま

紙からすべて手作りで

だるま市の準備でさぞ忙しいのだろうと推測していましたが、仕事場でだるまの顔を描いていた店主の佐川明子さんから意外な答えが返ってきました。

「確かに年末年始に仕上げと出荷で忙しくはなりますが、今だけが忙しいというわけでもないんです。結婚式の引き出物や選挙、近隣の市町で行われるお祭りで売るだるまの注文が入るので年中同じようなペースで作っていますね。それに、他にもやるべき作業が山ほどありますから」

だるまの顔を描く仕上げ作業ばかりが注目されますが、だるまに使う紙を自ら漉き、底に取り付ける陶器製の重りも粘土をこねて自分たちで焼きます。だるま製作の下準備とも言えるこうした作業もこなすため、工房には楮の束が積まれ、それを煮る大きな容器や陶器を焼く電熱釜がそろっています。

他の産地では木型で作ることが多いのですが、白河では土の焼き型を使います。海藻を煮て作った糊で、楮で作った丈夫な和紙を型に張り付けていきます。紙を幾重にも張り合わせた後、顔を描く部分に古紙を張ります。この古紙は、田畑の広さや収穫量などを記した台帳や名寄せ帳(昔の教科書)といった古い帳面です。薄くて柔らかいためだるまへの張り付きが非常に良く、顔の仕上げには欠かせないといいます。帳面の中には、歴史的価値のあるものも含まれていて、これを破ってだるまの材料に使うため、歴史の専門家に白い目で見られたこともありました。古紙の代わりとなる薄くて柔らかい和紙もあるにはありますが、紙代だけでだるまの販売価格より高くなってしまいます。幸いなことに、佐川さんの曾祖父が相当な量の帳面を蓄えていてくれたおかげで、今もこうした古紙を使うことが出来ます。

紙が乾燥したら背中を割って型を抜き、底に陶器の重りを付けます。下地に貝殻から作られた真っ白な胡粉を塗って乾かせば、いよいよ塗装です。

白河だるま
小さなだるまは手に持って塗ることが出来ないので「弁慶」と呼ばれる藁の束で作られた乾燥台に刺し、大きなものは地面に整列して彩色を待ちます。定番は鮮やかな赤ですが、

「近頃は風水を勉強しているお客さまもいて、色の指定も多い。黄色やピンクなど、これまでなかった色の注文が増えました」

と佐川さん。彩色の後、約1年がかりの作業の総仕上げ、顔入れとなります。仕上げ作業は3月まで続き、翌月からはまた新たに紙漉きと陶器焼きが始まります。年によってばらつきはありますが、佐川だるま製造所では、年間でおよそ6万個のだるまを生産しています。

白河きっての名君の足跡

白河だるまが今日、私たちの目を楽しませてくれるのも、元を正せば松平定信の功績が大きいと言えます。お抱え絵師に顔を描かせたこと、市でだるまを売らせたことは前述しましたが、土型で作るだるまの製法にしても、定信の命で京都へ行った瓦職人が持ち帰ったものと言われています。

定信が家督を継いで第2代白河藩主に就任したのは、天明の大飢饉の真っ直中の1783年のこと。飢饉で苦しむ領民を救うため、定信は率先して倹約に努め、食料救済措置をいち早く行いました。その結果、藩内の被害は最小限に食い止められ、白河藩では天明の大飢饉による餓死者が出なかったと言われます。この時の対応が注目されて、11代将軍徳川家斉の下で幕府老中首座を務めることになりました。「寛政の改革」で武士や民衆のゆるみきった風潮を引き締めるなど6年にわたって国政に力を注ぎました。老中職を退いた後は白河に戻って、農村復興や殖産興業など矢継ぎ早に藩の政策を打ち出しました。

南湖公園

政治家として腕を振るう一方で、定信には書画、音楽、文学などに深く親しむ文化人としての一面もありました。作庭家としても優れており、庭を造っては絵師に描きとめさせる記録魔でした。定信の手による唯一現存する庭園が、現在の南湖公園です。南湖はもともと新田開発とかんがい用水を目的に造られた人造湖です。定信はこの湖に庭園の手法だけではなく、近代的な思想も注入しました。そもそも大名庭園とは藩主とその家族が楽しむものですが、定信が作庭した南湖は、身分の分け隔てなく武士も領民も共に憩える「士民共楽」の理念を具現化したものでした。これは身分制度が厳しい当時としては画期的なことで、領民に開放された南湖は、日本におけるパブリックガーデンの先駆と言っても過言ではありません。

定信の記録ぐせは、庭だけにとどまりません。1991年、戊辰戦争の折に焼失した白河藩の居城小峰城の三重櫓が、残されていた絵図を基に忠実に復元されました。この絵図というのが何を隠そう定信が家臣に命じて書き取らせたものです。場内の櫓や城門の配置、本丸御殿の間取りや寸法、屋根の勾配など城内のほとんどの実測図が残っていました。

小峰城

「白河の史跡のほとんどに定信が関係している」

取材中、そんな話を耳にしましたが、さすがに「白河の関」は例外だろうと思っていました。奈良時代から平安時代にかけて奥州に勢力を広げていた蝦夷の南下をはばむべく設けられた古代の城柵と、定信に接点は見当たりません。ところが、記録がないためずっと不明であった関の所在位置を、地図や歴史書、詠歌、古老の話をもとに「この場所にあったに間違いない」と、1800年に定信が認定しているのです。南湖、小峰城、白河の関は、いみじくも白河の3大史跡。これに白河だるまを加えると、松平定信とは、現在の白河観光の種まきをした人物だと言えなくもありません。

2011年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)

白河だるま

●顔をきれいに描くために古い台帳の紙を利用。中には貴重なものも混ざっていたそうです


白河の関

●久しく不明であった「みちのく」への入り口「白河の関」の位置を定めたのも定信

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