和竿にも、鞠にも感じる庄内、藩政時代の面影 - 鶴岡
刀を竿に持ち替えて 倹約、学問、産業、田畑の開墾。江戸時代、諸藩は実にさまざまな奨励政策を採っていますが、庄内藩が採った策は他に類がありません。文献によると文政10(1827)年に10代藩主、酒井忠器が奨励したのは磯釣り。長く平和が続いたことで武士道が廃れつつあることを憂い、行軍のための足腰の鍛練にもなるという理由で、釣りに出掛けるよう藩士に促しました。 酒井氏の居城である鶴ケ岡城(現在の鶴岡市)から最も近い海岸でも3里(約12km)は離れています。山道が続くこの行程を藩士は竿を担いで歩くのです。とは言っても、今とは違ってそれほど娯楽のない時代。まず間違いなく磯釣りは藩士らの血を騒がせたはずです。まだ見ぬ獲物を思い描いてはほくそ笑む者、先に釣り場所を取られないように夜中のうちに城下町を後にする者も少なくなかったでしょう。 しかし、藩主の勧める磯釣りは体力と胆力の鍛錬の場、娯楽ではありません。それゆえ、釣りに行って自分の不注意で海に落ち、ケガをすると減給されるなど、厳しい処分を受けることもありました。それでも釣り人気は衰えず、後に武士だけではなく庶民にまで広がり、ますます盛んになりました。 磯釣りの話を鶴岡の人にたずねていると、「歩いて釣りに行く」という行為が、意外にもごく最近まで続いていたことを知り驚きました。 「私が子どもの頃はまだ学校で釣り遠足というのがありました。お彼岸が過ぎた頃、各自竿を持って釣り場まで歩くんですよ」と思い出話に目を細めるのは、トキワ釣具店の常盤敬一さん。庄内地方独特の和竿「庄内竿」を作る竿師です。 江戸時代には庄内竿を作る名人が多くいて、こうした名人に習って釣り人自らが竿をこしらえました。出来の善し悪しに一喜一憂しては、名刀を誇りにしたように名竿を自慢し合ったといいます。常盤さんが子どもの頃でもまだ多くの竿師がおり、鶴岡市内の釣具店ならどこでも庄内竿を作って販売していました。しかしそんな竿師も現在は、常盤さんを含め数人となってしまいました。 竿になるのは1000本に1本 漆をかけずに木地を生かした美しさが印象的な庄内竿は、根元から穂先まで1本の竹で作られた和竿です。徒歩で釣りに行った時代には継ぎ目がない延べ竿でしたが、列車に揺られて出掛ける時代になってからは、持ち運びに便利なように2〜3本に分解出来る継ぎ竿が主流となっています。 材料はこの