日本海を臨む木都上空で、巨大アッカンベーが風に舞う - 能代
謎多きべらぼう凧起源説
能代港の岸壁近くの公園で、数人の大人がかがみ込み、いそいそと何かの準備を進めています。何が始まるのかと眺めていると、「せーのっ」の掛け声と共に3畳はあろうかという大凧が立ち現れました。
真っ赤な舌を出した何ともユーモラスなこの凧こそ、能代凧の代名詞「べらぼう凧」です。
この凧、坂上田村麻呂が東北地方へ遠征した際に入港の目印にしたとか、宴会で舌を出した顔を描いて腹踊りをした船乗りが、船頭に「このべらぼうめ!」としかりつけられたが、殊の外喜んだ船主がその絵で凧を作らせたのが始まりとか、由来は諸説あります。絵柄を検証したところ、明治の中頃に今の形になったことが分かっています。
舌を出す絵柄でべらぼう凧の名は知られるようになりましたが、会津若松の「会津唐人凧」を始め長崎県や隠岐の島など日本海側に何カ所か舌を出した凧があり、能代凧だけが唯一のアッカンベー凧というわけではありません。
「他の地域で舌を出している凧はいずれも絵柄が勇ましいけれど、能代の凧は子どもの顔。しかも男女の絵柄があることで珍重されるんです」
と話すのは、能代凧保存会の角谷俊明会長。能代凧の保存と継承を図る活動を行う傍ら、会のメンバーらとたまに集まっては凧を揚げるという根っからの凧好き。この日、岸壁で大凧を揚げようとしていたのも能代凧保存会の方たちでした。
べらぼう凧の男と女の見分け方は簡単。芭蕉の葉が描かれた頭巾をかぶった方が男べらぼうで、ぼたんの花の頭巾をかぶっているのが女べらぼう。一目瞭然です。角谷会長に、どちらの凧が好きか聞いてみました。
「能代凧はべらぼう以外にも、七福神や金太郎など絵柄も豊富。地元では特に武者絵を好む人が多いですよ」
聞くと保存会のメンバーは皆、武者絵派。なんでも上空で風を受けて、凧の骨が反った時、武者絵の絵柄の目の部分がキリッとつり上がって、ますます勇ましく見えるのがたまらないといいます。
伝統を今に伝える凧職人
かつては5軒あった能代凧の専門店も今では1軒を残すのみ。1887(明治20)年創業の「北萬」では、夏は提灯、冬は凧を作るのが祖父の代からの家業です。現在は2代目の北村長三郎さんから娘のマツ子さんに代替わりしています。
「40年前は子どもたちが競って凧を買いに来て、行列が出来る程だったんだけどね」
と、長三郎さんが感慨深そうに話すと、マツ子さんも、
「昔はそりに凧を付けて、引っ張ってもらった思い出がある。でも最近は雪が少ないからね」
と、凧で遊んだ懐かしい時代を振り返ります。
子どもの格好のおもちゃだった凧もテレビの登場によって次第に色あせました。現在も日本各地から注文が入りまが、揚げて遊ぶというよりはコレクションとしての要素が強くなっています。絵柄は25種類ありますが、売れる絵柄はだいたい決まっており、やはり県外からだとべらぼう凧が圧倒的だといいます。
骨に使う竹は1本1本小刀で削って作ります。縦骨2本、横骨3本を組み合わせ、墨で下絵書きした和紙を骨に貼り付けます。髪の毛を手書きし、最後に色付け。全ての工程をマツ子さんと旦那さんの二人だけで行うため、1枚作るのにどうしても4〜5日はかかってしまいます。絵柄は手書きだから、よく見ると1枚1枚微妙に違いがあります。何枚か並べた中から気に入った1枚を選ぶお客さんもいるそうです。
かつては能代凧にも版木があって、大量生産が可能だったらしいのです。「らしい」というのは、その版木が全く残っていないためです。なぜ残っていないかというと、昭和20年代と30年代に2度の大火に見舞われ、焼けてしまったからです。日本海に面して風が強い上、延焼を拡大させる木材が能代の街には豊富に存在しました。秋田杉の集散地として栄えた「木都」において、強風こそがアキレス腱でした。
風の街・能代を象徴する防砂林と風力発電のプロペラ群 |
が、逆に言えばその強風があったからこそ、凧揚げが盛んになったとも言えるでしょう。風が強すぎて上空で凧を自在に動かせないという理由で、ここ能代では「凧を制止させる」という楽しみ方が生まれました。
毎年4月の下旬になると「全市凧揚げ大会」が開かれ、10畳もあろうかという巨大べらぼう凧を始め、さまざまな凧が上空にずらりと並び、能代の街を睥睨します。
2008年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)
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