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夏を彩る祇園祭と、涼を誘う京うちわ - 京都

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ルーツは宮廷絵師が描いた御所うちわ 盆地にある京都の街は、冬は底冷えし夏は蒸し暑くなります。繰り返す季節の中で、寒さや暑さとどう向き合うか、この地に暮らす人々は工夫を重ねてきました。例えば涼を取り入れる知恵などは、今も街の随所で見ることが出来ます。代表的なものが、夏になると貴船や高雄、鴨川に現れる納涼床や川床。涼を取りながら食事を楽しめる季節限定の桟敷は、京都の夏の風物詩です。 鴨川沿いの納涼床で、うちわを片手にビールを飲む人の姿も見られます。涼やかなそよ風を起こすうちわも、暑い夏に欠かすことが出来ないものの一つです。京都だけで作られている「京うちわ」の老舗、阿以波さんを訪ねました。京の台所、錦市場を一筋上がった趣きのある京町屋がそのお店。店内には、竹で出来た骨が美しく並んだうちわが飾られていました。 「京うちわの大きな特徴はその形にあります。京都以外の産地では竹を割り骨を広げて作るため、風を起こす地紙面と柄が一体になった構造ですが、京うちわは地紙面に後から柄を差し込む『差し柄』の構造になっています」 と説明してくれたのは、阿以波の代表・饗庭智之さん。 差し柄のうちわは朝鮮王朝の流れをくむもので、南北朝時代に日本にもたらされ、江戸時代になって京都に定着しました。当時、宮廷御用として名を馳せた狩野派や土佐派の絵師らが、御所のふすまや調度品に彩色を施しましたが、この時うちわにも絵を描きました。蒔絵なども施された豪華なそれは「御所うちわ」と呼ばれ、現在の京うちわの元になっています。 あおいでも、目で見ても涼しい京うちわ 京うちわ作りは、竹から細い骨を取ることから始まります。骨は竹の繊維に沿って割っていくため、竹は真っすぐでよく締まったものほど良いとされます。阿以波では4、5年平地で育ち、ある程度の固さになった丹波の竹を使います。皮を剥いだ身の部分に約0.5mmの刻みを無数に入れて、繊維に沿ってもみほぐしながら竹を割っていきます。一方、骨に張り合わせるうちわ紙の素材や模様には、特別な決まりはありません。和紙に木版や手描きで絵を描いたものから、友禅や箔といった高級素材までいろいろあります。 「刺繍が好きな人が、自分で刺した刺繍をうちわにしたいというオーダーもあります」(饗庭さん) 骨と紙を張り合わせる作業は、まず「仮張り」から始まります。一つのうちわに使う骨は60〜120本。

水に恵まれ、金銀糸で華やぐ五里五里の里 - 城陽

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地下水と西陣の恩恵で発展した地場産業 京都を代表する伝統工芸の一つ西陣織や、京都祇園祭の山鉾を飾る緞帳がキラキラと輝いているのは、ラメ糸とも呼ばれる金銀糸が使われているためです。この金銀糸の製造で、国内生産量の約8割を占めるのが城陽市を中心とする南山城地域です。 もともとは職人の手で和紙に金箔や銀箔を張り、細長く切ったものを綿や絹の芯糸に巻き付けて作るものでしたが、1960年頃から化学繊維による機械化生産が主流になりました。現在作られているのは、ポリエステルフィルムに銀、もしくはアルミニウムを特殊な技術で付着させ、色彩豊かに着色したものです。機械化で大量生産が可能になったことで、和洋を問わず衣料や装身具、インテリアや生活雑貨の素材などとしてさまざまな分野、用途で金銀糸が使われるようになりました。面白い所では自動車のシートや、商品券等のホログラムの素材として利用されています。 一方で、高級品には現在も和紙に金箔を押して作る伝統的な本金糸がしばしば使われます。本金糸の製作現場を見せてもらうと、和紙に漆を染み込ませ、完全に乾く前に丁寧に拭き取る作業が行われていました。和紙に箔押しする際、漆は接着剤の役割を果たします。漆の乾燥には適度な湿度が必要なのですが、城陽は宇治川と木津川の合流地点で水が豊富であるため、生産に適しています。また、市域の地下には琵琶湖の水量に匹敵するほどの地下水が溜め込まれていると言われ、昔から飲み水以外にもさまざまな用途に活用されてきました。 話は少しそれますが、市内の城陽酒造では1895年創業以来、この地下水を汲み上げて酒造りをしています。南東の青谷エリアは砂利質で、雨が地面に染み込む際に、この砂利が天然のろ過器となって良い軟水を作るのだといいます。また、青谷には20haの梅林が広がり、2~3月にかけ約1万本の白梅が咲き誇り、辺り一面、大きな白布を広げたように白一色となります。 ともあれ、掘ればすぐに水が出るため、箔押しにはうってつけの場所でした。明治の終わりから大正時代にかけて、箔押しや糸撚りの職人らがこの地に集ったことで、地域で一貫して金銀糸を生産出来るようになり城陽は金銀糸の町になりました。また、城陽は京都から五里(約20km)、奈良からも五里の距離だったことから「五里五里の里」と呼ばれます。金銀糸の大消費地である京都の西陣にも比較的近かったた

数百年変わらぬ製法で作り継がれてきた一休寺納豆 - 京田辺

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一休寺納豆 伝統の製法と味を次の世代に 京田辺市の西に位置する甘南備山は古来信仰の対象とされ、平安京を定める際には都の中心軸の南の起点にされたといいます。その麓に通称一休寺と呼ばれる酬恩庵があります。室町時代に一休宗純が再興し、晩年を過ごしました。 1年で最も暑い時季を迎える土用、寺では一休寺納豆の仕込みが行われます。糸引き納豆と違い麹菌で大豆を発酵させる仕込み作業には、暑さと湿度が欠かせません。 一休寺納豆は中国の調味料、豆 豉 に近い。日本には奈良時代に伝来しましたが一度は途絶え、鎌倉時代に宋に渡った禅宗の僧が持ち帰り、寺院で生産されるようになります。その伝統を受け継ぐのが、一休寺納豆や京都・大徳寺の大徳寺納豆、静岡県浜松・大福寺の浜納豆で、一休寺では代々の住職が製法を受け継いできました。 仕込みはまず良質の大豆を洗うことから始まります。蒸した大豆にはったい粉と麹菌を混ぜ、江戸時代から使われてきた麹蔵で発酵。発酵を止めた後、塩水に混ぜて木桶に仕込みます。それからは1年間、日中は桶のふたを開けて天日干しし、毎日撹拌します。1年経つと水分は飛んで黒い粒になり、これを更に1年間熟成させて完成となります。大豆を蒸すのにボイラーを使う以外は、昔と変わらぬ手作りです。 一休禅師は寺のある薪の里の人々に、納豆づくりと仕込みに必要なむしろの織り方を教えたと伝えられています。ここには戦前まで納豆を作る風習が残り、昭和30年頃まではむしろづくりが地場産業となっていました。現在ではむしろの作り手がいなくなり、一休寺では古い民家などから譲り受けて何とか確保しています。 一休寺納豆は塩気が強い食べ物です。近年は減塩をうたう食品が多いですが、田邊宗一住職は伝統の製法を変えるつもりはないと話します。 一休寺納豆 「今の方の口には塩辛いのかもしれません。しかし時代に合わせるということはしたくない。代々伝えられてきたものを次の代に受け継ぐ過程として、今があると思っています」 その味はただ塩辛いだけでなく、一粒口に入れると、塩味の中にまろやかな酸味が広がります。ごはんの供に、また麻婆豆腐などの調味料として使うのもいいでしょう。伝統のその味を、最近では市内の若手シェフがフレンチのメニューやクッキー、マカロンなどの洋