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新しくて、どこか懐かしい港町 - 北九州

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旧門司税関 「不夜城」と化した港町 本州と九州とを隔てる関門海峡は、最も狭い部分で可航幅がたったの500m。潮流の流速も最速時で9ノット(毎秒4.6m)を超えるため、昔から航海の難所でした。それでも、瀬戸内海と日本海という二つの海を結ぶ海峡とあって、現在も1日約600隻もの船舶が往来する海上交通の要衝です。 この関門海峡に面した北九州市が「九州の玄関口」になり得たのは、港湾と鉄道という二大インフラをいち早く整備したからです。背後に筑豊炭田を控えていたことで、1889年に門司港が石炭などを扱う特別輸出港に指定されると、その2年後には門司港を起点とする九州鉄道(国鉄の前身)が開通。炭鉱と港の間を石炭列車が往来し、門司港は貿易港としての地位を確立しました。岸壁には隙間がないほど船があふれ、外国船がひっきりなしに港を出入りしました。 港の将来性に目を付けた金融資本の進出も相次ぎました。大商社や銀行が先を争って門司に支店を出し、門司港の目抜き通りにはこうした商社や銀行の洋風建築社屋が軒を連ねました。1898年には九州で初めてとなる日本銀行の支店も門司に出店しています。鉄道の走る海岸沿いには工業地帯が出来、門司は産業都市に発展。街は活気にあふれ、さながら不夜城の様相を呈していたといいます。 ところが、終戦と共に海外貿易が縮小し、エネルギー源の主体も石炭から石油へ。更には、1958年の関門国道トンネルの開通で、海運と鉄道に頼っていた物流がトラック輸送に取って代わり、港の需要が低迷していきました。 かつてのにぎわいは失われたものの、華やかなりし頃をしのばせる、れんが造りの古い建物はその場に残りました。近年、北九州市では、門司港エリアに点在するこうした歴史的建造物を、新しい都市機能と組み合わせる街作りを進めてきました。1995年から「門司港レトロ」として新たな歴史を刻み始めた港町エリアは、往時の面影の残る都市型観光地として年間200万人が訪れる人気スポットとなっています。 門司発祥の伝統芸 「門司港レトロ」の中でもシンボルとも言える存在が、JR門司港駅です。1914年に建設されたネオ・ルネッサンス様式の洋風木造建築物で、鉄道の駅舎としては初めて国の重要文化財に指定されました。あの東京駅の駅舎よりも10カ月早く完成してい

工芸の町八女を支えてきた職人たちの手仕事 - 八女

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八女提灯の絵付け 手仕事の結集で生まれた八女提灯 その土地の風土に育まれた材料を用い、職人の手仕事によって作られてきた工芸。八女には今も数多くの手工芸が残っています。時代の変化で地元産の材を求めることこそ難しくなりましたが、職人の技術は健在です。 八女の数ある工芸の中でも歴史の古いのが手すき和紙です。400年前に諸国を行脚した日蓮宗の僧日源が製法を伝えたとされます。温暖な気候に恵まれたこの地では、豊富にあった竹や木を材料とする手仕事が発達。それらの技術を結集させ、江戸時代後期には提灯と仏壇の製造が始まりました。木工や漆塗り、蒔絵など製造技術に共通する部分が多く、またどちらも仏事にまつわる工芸として共に発展し、八女提灯と八女福島仏壇はそれぞれ国の伝統的工芸品の指定を受けています。 八女は盆提灯を中心に提灯の生産量日本一で、現在は十数社が製造を手掛けます。㈱井上為吉商店(井上恵二代表取締役)は、八女を始め九州地方で主流の丸型や筒型の他、地方によって特色のある形の盆提灯や、祭礼用の大型のものなどさまざまな提灯を製作し、全国へ卸しています。 昔から八女の提灯作りを担ってきたのは、内職による手仕事です。灯の入る火袋の部分では、張り型に刻まれた溝に沿ってらせん状にひごを巻くひご巻きから、和紙や絹を張り付けるまでを一人が行います。井上為吉商店では、特殊な物を除きこの作業は70軒の内職が担っています。 ひごはかつては竹ひごでしたが、今は針金にビニールを巻いてその上に紙を張った鉄線が主に使われます。また、草花や風景など繊細な絵柄が描かれる盆提灯の火袋に張られるのは、和紙ではなく絹布です。 撮影協力/八女伝統工芸館 この道32年になる絵師の塚本泰吉さんは、会社勤めをした後に名人と呼ばれた父から絵付けの基本を教わりました。作業をする塚本さんの足下には、描きかけの火袋が10個並んでいます。右手に白い絵の具の筆を持つと、左手で並んだ火袋のうち一つを取り上げて菊の花びらを描き、順々に10個に花びらだけを描いていきます。緑色の筆に持ち代えると、今度はキキョウの葉だけ、次は黄色の筆で花芯だけといった具合に、下書き無しでスッスッと筆を動かしていきます。こうして同色の部分だけを描くことで筆を持ち変える回数を減らし、早く大量に絵付けして

大河筑紫次郎と共に歩んできた日本一の家具の町 - 大川

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若津港導流堤 筑後川水運で開けた港町 関東の利根川、四国の吉野川と共に日本三大暴れ川の一つに数えられ、筑紫次郎の別名で呼ばれる九州一の大河筑後川。阿蘇山を源に、熊本、大分、福岡、佐賀の4県を流れ、有明海へと注ぎます。 中流域から下流域にかけては、藩政時代、久留米(有馬)、福岡(黒田)、佐賀(鍋島)、柳河(立花)の4藩が境界を接し、境界争いや水争いなどが頻発。互いの仲はかなり悪かったようです。そのため、藩領防衛を第一義に、筑後川への架橋は厳禁とされ、舟運が発達しました。最盛期には、この流域だけで62カ所もの渡船場があったといいます。 大川市は、その筑後川が有明海に流れ込む河口付近にあります。江戸時代には、北は久留米藩、南は柳河藩の領地となっていました。境界は町の中心を分断し、久留米藩側の榎津地区と柳河藩側の小保地区は「御境江湖」という掘割で仕切られていました。かつての肥後街道沿いには、藩境を示す境石の石列が、今も残っています。 榎津は、花宗川が筑後川に合流する川岸にあり、もともと水運の要衝として筑後川河口を守る小城下町でした。が、1751(宝暦元)年、久留米藩が農産物を始めとする物資輸送の拠点とするため、若津港を築港した後は、筑後川本流からやや町場に入った榎津は港町として大きく発展していくことになります。また、若津港も藩の目論見通り、筑後川水運と有明海航路を結ぶ物資の集積地として、筑後川最大の河港となり、筑後川の別称・大川にちなみ大川港とも称されるほどになりました。 明治以降も渡し場は続々増加。漁港も相次いで整備され、ノリやエツなどの漁業拠点として現在も12漁港があります。1935(昭和10)年に旧国鉄佐賀線筑後大川駅と諸富駅間に筑後川昇開橋が竣工しましたが、やはり船舶優先。船が通過する時には、橋の中央部が上方に動く昇開式可動橋として建設されました。 筑後若津橋梁 筑後若津橋梁 日本一の家具産地への道 若津港築港により発展した大川には、筑後川上流の豊後(大分県)日田から船や筏で杉も運搬され、木材の集積地ともなりました。そして、榎津地区では木材加工業も始まり、やがて日本一の家具産地として知られる基盤が、徐々に築かれていきます。 大川では、室町時代に船大工の技術を生かして指物を始めた榎津