工芸の町八女を支えてきた職人たちの手仕事 - 八女

八女提灯
八女提灯の絵付け

手仕事の結集で生まれた八女提灯

その土地の風土に育まれた材料を用い、職人の手仕事によって作られてきた工芸。八女には今も数多くの手工芸が残っています。時代の変化で地元産の材を求めることこそ難しくなりましたが、職人の技術は健在です。

八女の数ある工芸の中でも歴史の古いのが手すき和紙です。400年前に諸国を行脚した日蓮宗の僧日源が製法を伝えたとされます。温暖な気候に恵まれたこの地では、豊富にあった竹や木を材料とする手仕事が発達。それらの技術を結集させ、江戸時代後期には提灯と仏壇の製造が始まりました。木工や漆塗り、蒔絵など製造技術に共通する部分が多く、またどちらも仏事にまつわる工芸として共に発展し、八女提灯と八女福島仏壇はそれぞれ国の伝統的工芸品の指定を受けています。

八女は盆提灯を中心に提灯の生産量日本一で、現在は十数社が製造を手掛けます。㈱井上為吉商店(井上恵二代表取締役)は、八女を始め九州地方で主流の丸型や筒型の他、地方によって特色のある形の盆提灯や、祭礼用の大型のものなどさまざまな提灯を製作し、全国へ卸しています。

昔から八女の提灯作りを担ってきたのは、内職による手仕事です。灯の入る火袋の部分では、張り型に刻まれた溝に沿ってらせん状にひごを巻くひご巻きから、和紙や絹を張り付けるまでを一人が行います。井上為吉商店では、特殊な物を除きこの作業は70軒の内職が担っています。

ひごはかつては竹ひごでしたが、今は針金にビニールを巻いてその上に紙を張った鉄線が主に使われます。また、草花や風景など繊細な絵柄が描かれる盆提灯の火袋に張られるのは、和紙ではなく絹布です。

八女提灯

八女提灯
撮影協力/八女伝統工芸館
この道32年になる絵師の塚本泰吉さんは、会社勤めをした後に名人と呼ばれた父から絵付けの基本を教わりました。作業をする塚本さんの足下には、描きかけの火袋が10個並んでいます。右手に白い絵の具の筆を持つと、左手で並んだ火袋のうち一つを取り上げて菊の花びらを描き、順々に10個に花びらだけを描いていきます。緑色の筆に持ち代えると、今度はキキョウの葉だけ、次は黄色の筆で花芯だけといった具合に、下書き無しでスッスッと筆を動かしていきます。こうして同色の部分だけを描くことで筆を持ち変える回数を減らし、早く大量に絵付けしていくのが、八女で用いられる速描の技法です。

八女提灯の歴史は1813年頃、福島町の荒巻文右衛門が単色で草花を描いた素朴な提灯を売り出したのが始まりとされます。その後、1本の竹ひごをらせん状に巻いて火袋を形づくる技法や、内部が透けて見える薄紙に色とりどりの模様を描く改良が加えられて、「涼み提灯」として広まりました。彩り豊かな絵付けをするには手間と費用を要しますが、明治になって速描の画法を取り入れたことで、生産量が急激に増加しました。

塚本さんが仕事を始めた30年前は生産が追いつかないほどの忙しさで、寝る間を惜しんで日に30個も絵付けしたといいます。難しいのは数をこなしながら絵柄をそろえて質を保つことだと、塚本さんは話します。

「親父に一番最初に言われたのが、『忙しかけんいうて手え抜くな。忙しか時こそ丁寧に描け』ということ。常に今描いたのより次を上手に描こうと思って描いとります」

そんな職人たちの技と熱意が、伝統の灯を絶やすことなく守っています。

守り継がれてきた伝統の技

美濃和紙や越前和紙を始め、和紙の産地の多くは川の流れる所にあります。和紙の原料となる楮や三椏、雁皮の樹皮を川の冷水にさらし、不純物を除くと共に紫外線によって自然漂白するためです。

八女手すき和紙
八女の手すき和紙
八女市を流れる矢部川の流域でも、かつては川さらしの風景が冬の風物詩でした。全盛期には流域に2000軒近い工房があったといいます。現在、八女手すき和紙組合に所属する工房は6軒。その一つ、山口和紙工房で手すきの技を見せてもらいました。

八女の手すき和紙の原料は楮。今は八女では栽培されなくなり、県境をはさんだ熊本の農家から主に仕入れています。楮は三椏や雁皮に比べ繊維が長いのですが、とりわけ九州産の楮は繊維が長いのが特徴です。他産地の繊維が1cmほどなのに対して1.5~2cmもあります。

長い繊維が絡み合うことで破れにくく、荒々しく男性的な紙と評されます。障子や提灯、仏壇、表具、傘、膏薬などさまざまな用途の紙が作られ、戦前までは工房ごとに専門が決まっていました。山口和紙工房では提灯紙を専門にすいていたそうです。

工房の6代目山口俊二さんがこの日すいていたのは、無漂白の楮を使ったかなり厚手の和紙でした。濃い生成色をした素朴な味わいの紙は、酒瓶のラベルになるとのこと。紙の厚さを決めるのは、トロロアオイの根から抽出した粘剤の案配と、長年の経験によって培われた勘だと、山口さんは話します。

「繊維をからませるために、タテの動きだけでなくヨコ揺れも加えます。今は研究が進んで楮の紙が機械でもすけるようになっていますが、違いは1枚の紙に出来る層です。手すきだと3層から4層になりますが、機械では1層だけで、厚さを均一にするのも難しいようです」

すき上がった和紙は蒸気式の乾燥機に乗せ、馬毛の刷毛でなで付けて乾燥させます。この作業は山口さんがやるとどうしてもシワが寄ってしまうそうで、奥さんが担当しています。

続いて訪ねたのは、独楽工房・隈本木工所。日本各地にはその土地ごとにさまざまなこまがあります。九州のこまは鉄芯をつけた「けんかごま」。ヒモを使ってこまを回し投げ、ぶつけ合って強さを競い合います。相手のこまを割って手に入れる鉄芯が、子どもたちにとっては勲章です。取材に同行していた地元の国武晃久さんも、強いこまにしようと自分で鉄芯を削ったものですと、少年時代を懐かしんで目を輝かせていました。

隈本木工所は100年前からこま作りを専門にしてきた工房です。こまの工房は現在では九州で2軒だけになり、博多こまや肥後こまなど九州各地の伝統的なこまの他、さまざまな木製玩具も製作しています。

八女和こま
八女和こまの彩色

こまに使う木材は堅過ぎず、粘りのあるマテガシ。原料の丸太を製材して1年ほど乾燥させ、ろくろを使って削りだしていきます。工房の主の隈本知伸さんの頭を悩ませるのは、材料の入手難と値上がりです。もともとは地元産の木材を使っていましたが、戦後に山林が次々に杉に植え替えられたため、近年は佐賀県産のマテガシを使ってきました。しかしそこも担い手がいなくなり、現在はつてを頼って製材を分けてもらっていると言います。

「こまは子どもが自分で買う玩具ですし、ぶつけ合うけんかごまですから、材料が手に入りにくいからといって高価な物にするわけにはいきません。そのため積木など他の玩具も作りながら、八女和こまは何とか安価に抑えています」

福岡では毎年12月、太宰府天満宮杯和ごま競技大会が開かれます。こま遊びの中で、子どもたちは挑戦することの大切さを学び、競い合いながら社会性を身に付けていきます。そんな昔ながらの遊びを復活させようと、2003年に始まりました。隈本さんもこま遊びを途絶えさせたくないと、幼い子どもでも簡単に回せる「ラクコマ」や、デザイナーとの共同による現代的なフォルムの美しいこまを生み出しています。

2017年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)

▼福岡県八女市

福岡県の南部に位置し、南は熊本県、東は大分県に接しています。中心市街地の福島には江戸時代の始めに城下町が形成され、明治以降は商家町として発展。江戸末期から明治に建てられた居蔵の建物が多数残り、国の伝統的建造物群保存地区に指定されています。手工芸の町、職人の町でもあり、国指定伝統的工芸品の仏壇と提灯を始め、手すき和紙や石燈籠、竹細工、絣など多くの手工芸が受け継がれ、その技術は八女伝統工芸館で見ることが出来ます。また八女茶や電照菊の産地としても知られます。北部九州最大規模の岩戸山古墳を始めとする八女古墳群があります。
【交通アクセス】
市内に鉄道駅はなく、最寄りのJR鹿児島本線羽犬塚駅からバス。
九州自動車道八女ICから国道442号線を熊本方面へ。福岡空港から高速バス利用で八女ICまで約50分。

八女福島
八女福島の白壁の町並み

写真説明

●八女提灯の絵付け:下書き無しで、火袋の布の継ぎ目とひごを目処に描きます。速描の画法は早く描けるだけでなく、絵柄を同一にそろえやすいと塚本さん(協力/㈱井上為吉商店 Tel.0943-23-5045)
●八女の手すき和紙:何度か簀桁(すげた)を動かして、ほど良い厚さになったら水を捨てます。この時に半分を捨てて半分を手前に戻すのが「返しぐみ」という八女のすき方。戻る水で表面のゴミを取り除きますが、シワが生じやすいので技術が要ります(協力/山口和紙工房)
●八女和こまの彩色:片手に2本の筆を持って2人が息を合わせて行います。効率良く作業することで単価を低く抑えています(協力/隈本木工所 www.yamegoma.jp  Tel.0943-22-2955)


●ひごを巻いた張り型は、上下のコマを外すとバラバラになり火袋の中から取り出せます


●博多こまとほぼ同じ形ですが中央にとがったヘソがあるのが八女和こまの特徴

コメント