潜伏キリシタンの祈りの日々を今に伝える島の教会 - 小値賀

旧野首教会
旧野首教会

安住の地で守り抜かれた信仰

小値賀町を構成するのは火山活動で生じた大小17の島々。その中で、最も大きいのが小値賀島、その次が野崎島です。小値賀島が平坦なのに対して、野崎島は海面に山が突き出したような地形をしています。島の北端にあり704年創建と伝わる沖ノ神嶋神社が五島列島一円の信仰を集めると共に、小値賀島の住民にとっては薪山の役割も果たしていました。

野崎島からは2001年を最後に住民がいなくなりましたが、キリシタンの集落だった島中央部の野首には、旧野首教会が残されています。この教会は五島列島を中心に多くの教会堂を建設した鉄川与助が、初めて手掛けたレンガ造りの教会です。

教会の周囲には昭和40年代まで信徒たちが暮らしていましたが、今は石段を残して住居は跡形もありません。地面がまるで丁寧に芝を刈り込んだように見えるのは、野性のキュウシュウジカの仕業。樹木の葉もシカが届く範囲は綺麗に食べられています。

野崎島にはかつて三つの集落があり、昭和30年代には約650人の島民が暮らしていますた。最も古い集落が平野部にあった野崎で、沖ノ神嶋神社の神官家を中心にした氏子集落。他の二つは、外海地方から移住した潜伏キリシタンが作った野首と舟森の集落です。

野崎に最初にキリシタンが入ったのは江戸時代の末。1797年、五島藩が大村藩に対して開拓民の受け入れを申し入れ、迫害を逃れ安住の地を求めるキリシタンが五島へ移り住みました。

小値賀は平戸藩の所領でしたが、2組のキリシタンが野首に住み着きました。もう一つの舟森集落の始まりについては、次のような逸話が残ります。

小値賀島の船問屋田口徳平治は、大村の浜辺で翌日に処刑されるという3人のキリシタンに出会いました。徳平治は3人を船に隠して救い出し、舟森に住まわせました。野崎島の南端に位置する舟森は小さな入り江に急峻な斜面が立ち上がり、人の侵入を拒むような場所です。その険しい斜面を切り開いて段々畑が築かれました。


江戸幕府が出した禁教令は明治政府が樹立された後も続き、島でひそかに暮らしていた人々にも過酷な弾圧が及びます。1869(明治2)年、二つの集落合わせて15戸の住民が平戸に連行され、拷問の末に改宗させられました。

島に戻った人々が信仰の自由を得たのは、禁教令が解かれた1873年。信者たちは祈りの場を求めて、野首と舟森にそれぞれ木造の教会を建てました。更に野首では本格的な教会建設を計画し、集落の17世帯が生活を切り詰めながらキビナゴ漁などで資金を蓄え、1908(明治41)年に現在の姿の旧野首教会を完成させました。

その後1960(昭和35)年には、野首に25世帯137人、舟森には29世帯139人が暮らしていましたが、急速な近代化の波を受けて島を離れる人が相次ぎ、66年には舟森、71年には野首から最後の住民が去りました。


一時は荒廃した旧野首教会は1985年に小値賀町によって全面改修され、長崎県の有形文化財に指定されました。海に向かって建つ教会は、厳しくも穏やかに暮らした人々の祈りを、今に伝えています。

島暮らしの豊かさを味わう

海上交通の要所にあり、豊かな水産資源に恵まれた小値賀は、古くから交易や漁業で栄えてきました。明治の終わりには回り舞台のある劇場、布袋座が建てられ、島の中心地の笛吹地区には造り酒屋や商家が並んでいました。戦後間もない頃にはイワシ漁の船団で活気づき、人口は現在の4倍に近い1万人を超えていました。

小値賀に繁栄をもたらしたものの一つが捕鯨です。捕鯨は江戸初期の寛永年間に紀州から来た人たちが基地を置いたのに始まり、その後壱岐から移住した小田家が笛吹を拠点にして鯨組を組織。小田家は新田開発や酒造業、回船業にも乗り出して島の発展に寄与しました。

牛の塔
牛の塔

もう一つ、小値賀を語る上で外せないのがアワビ。島のアワビ漁が最盛期を迎えたのは1970年代で、単一の漁協としては日本一の水揚げを誇りました。小値賀でアワビ漁を行うのは海士で、水深20m以上まで潜る素潜り漁です。大型で肉厚のアワビは中国で珍重される干し鮑、明鮑に加工し輸出もされていました。しかし90年頃からアワビの餌となる藻が消滅する磯焼け現象で、急激に数が減ってしまいました。

産業の衰退と共に人口減少に悩まされてきた小値賀ですが、最近は移住してくる人が増えてきました。ゆったりと時が流れる島の暮らしには、都会にはない豊かさがあります。アワビは減ったとはいえ海産物は豊富。コンビニエンスストアはありませんが、港で糸を垂らせば簡単にアジが釣れます。島東部の浜崎鼻には、元は牛の放牧場だった場所に島民の有志が手作りしたゴルフ場があります。天然芝のグリーンの向こうは東シナ海という、ぜいたくなコース。ここでのプレーを目当てに島を訪れる人もいるといいます。

小値賀の魅力が広く知られ、島を訪れる人の数が飛躍的に増えたのは、07年にNPO法人おぢかアイランドツーリズム協会が発足して、古民家ステイと民泊という二つの滞在スタイルの提供を始めたのがきっかけです。

古民家ステイ
古民家ステイ「親家」

漁師の家や商家、郷士の屋敷など、それぞれの暮らしの息吹が残る古民家を宿泊滞在施設に改装し、一棟貸しするのが古民家ステイ。監修を担当したのは、東洋文化研究者で京町家の再生事業を手掛けたアレックス・カー氏。古民家の趣を残しながら、キッチンや浴室などの水回りには最新の設備を整えています。

一方、民家に泊まる民泊では、家族の一員として食卓を囲み、団らんしながら島の暮らしが体験出来ます。漁や農作業などの体験もあり、修学旅行にも利用されています。こうした民泊での交流は訪れた人だけでなく、受け入れる島民にとっても大きな喜びになっています。

2015年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)


▼長崎県小値賀町

五島列島の北部に位置し、小値賀島を含め合わせて17の島々から成ります。このうち人が住む島は6島。「小値賀」の名は『古事記』の国産み神話で五島列島を指す知訶島(ちかのしま)の名残とされます。小値賀島の前方湾で古代中国船の碇石が発見されており、海上交通の要所であったことがうかがえます。豊富な水産資源に恵まれ、江戸時代には捕鯨基地として繁栄。昭和50年代には単一の漁協としては日本一のアワビ漁獲量を誇りました。独自に形成、継承されてきた小値賀諸島の景観は、国の重要文化的景観に選定されています。現在は島の魅力を生かした体験型滞在を推進し、年間に2万人が訪れます。
【交通アクセス】
博多港から野母商船のフェリーが1日1往復運行、往路夜行で所要5時間。佐世保港からは九州商船が運行し、高速船は1日2往復で所要2時間、フェリーは1日2往復で所要3時間。

旧野首教会と野崎自然学術村
旧野首教会と野崎自然学術村

写真説明

●旧野首教会:世界遺産暫定リストに登録された「長崎の教会郡とキリスト教関連遺産」の一つ
●牛の塔:小値賀島は元は東西二つの島に分かれていましたが、鎌倉時代末期、平戸松浦家15代源定が島の間を埋め立てて新田を造成しました。塔はこの時の干拓工事で犠牲になった使役牛を供養するために建てられました
●古民家ステイ「親家」:田園風景が広がる柳地区の石畳の先、木々に囲まれて建ち、元郷士の屋敷らしい風格が感じられます。小値賀島内にそれぞれに趣が異なる6棟の古民家ステイと、古民家レストランがあります
●旧野首教会と野崎自然学術村:自然学術村は、廃校になった小学校を再利用した簡易宿泊施設。小値賀島から野崎島には町営船「はまゆう」が1日1往復運行していて、港から教会のある野首までは歩いて20分ほど。現在は自然学術村の管理人を除いて無人の島なので、渡航の際にはおぢかアイランドツーリズム(http://ojikajima.jp TEL0959-56-2646)へ連絡が必要です


●酸化鉄を多く含む火山岩の砂礫で出来た赤浜海岸の赤い砂浜

●シコシコと弾力のある歯ごたえの「スボかまぼこ」。アジだけで作るのが小値賀の伝統です

●スボかまぼこは、新鮮なアジを腹骨ごとすり身にし、調味料とつなぎの粉類を加えて形を整え、麦わら(=この地方では「麦スボ」と呼びます。現在はポリプロピレン製)でくるみ加熱します。作り手の松永静江さんのこだわりは素材の鮮度とシコシコ感。冷凍物は使わないのでアジが上がらない日は作りません。民泊の受け入れも行い、宿泊者にはかまぼこ作りを体験してもらっています

コメント