旧母里藩の面影が残る町は、西日本屈指のフラワースポット - 安来

 

西日本一のチューリップ畑

安来と聞けば、どじょうすくいでおなじみの民謡、安来節を思い浮かべる人が多いでしょう。その一方で、意外に知られていないのが、西日本最大規模の栽培面積を誇るチューリップ生産地だということ。毎年4月中旬には、約3ヘクター­ルの畑に100種類以上、60万本が咲き誇る、はくたチューリップ祭が開かれ多くの人でにぎわいます。

赤、白、黄色どころか、オレンジにピンク、紫、緑と多彩な色がそろいます。形状もおなじみのカップ咲き以外に、ユリ咲きや花弁が多い八重咲き、ギザギザの入ったフリンジ咲きとさまざまです。一面に広がる花を眺めるだけでも楽しいですが、祭りでは1本50円で好きなチューリップを球根ごと持ち帰ることが出来ます。価格は26年前の開催当初から据え置き。しかも球根は秋に植えると翌年の春にまた花を咲かせるとあって、二度楽しむことが出来るのもうれしい限りです。

もともとこの地のチューリップ栽培は、安来市と合併する前の旧伯太町で水田の裏作として始まりました。チューリップ生産の先進地である富山県や新潟県の栽培方法を取り入れ、少しずつ作付面積を増やしてきました。チューリップは寒さに強く、水を好む植物です。その点、安来市や富山、新潟など山陰、北陸の日本海側は「弁当忘れても傘忘れるな」のことわざがあるぐらい、冬場の降水量が多く、球根栽培に適した気候となっています。

旧伯太町でチューリップ栽培が始まってから20年を記念して農協球根部会の十数人で見本市を開いたのが、はくたチューリップ祭の始まり。最初はわずか2反(20アー­­ル)の規模でしたが、噂は口コミでまたたく間に広がりました。

5年のうちに市内はもとより近隣の松江や米子(鳥取県)、広島県や岡山県などから大勢訪れるようになり、部会のメンバーだけで続けるのが難しくなってきました。折しも、安来市との合併があり、合併以降は市が祭りの運営を引き受けています。ピーク時には、最大12ヘクター­ルのチューリップ畑が点在していましたが、作り手の高齢化や、輸入自由化による価格破壊で生産農家は長く苦戦を強いられています。それでも市やJA、NPO、市民らが手を取り合って祭りを支えてきました。

祭りが終わると、チューリップ畑は水田に姿を変えます。稲穂に風車の景色は何とも不思議な光景ですが、それも安来らしさに思えてきます。稲が刈り取られた後、10月末から11月初めの天候の良い時に、来春の祭りで花を咲かせるべく球根が植えられます。

母里1万石の城下町

はくたチューリップ祭が行われる旧伯太町エリアの大部分が、かつての母里藩の領地。松江藩の支藩として創設された1万石の城下町として栄えました。ただ、藩主は江戸定府だったため、国元にはわずかな家臣が残るだけでした。現在も街道沿いに江戸時代の面影を残す武家屋敷が点在しています。面白いことに、どの屋敷も通りに対して斜めに建っています。これは武者隠しといって、隣家との境をずらすことで、人が一人隠れられるスペースを設けているもの。有事の備えです。

江戸で暮らす藩主へは国元から送金する必要がありましたが、母里藩は領地のほとんどが山間地とあって米も野菜もそう採れません。そこで資金獲得のために目を付けたのが鉄でした。砂鉄から和鋼を製造し、母里鉄と名付けて大阪方面へ出荷。質の良い鉄だったようで、刀にするのに適していました。城下町には鉄を商う商人も住み着き、武家屋敷に混じって商家も建ち並びました。

江戸時代の武家、商家が残る母里1万石の町並み

母里藩創設の少し前、戦国時代の話になりますが、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場した母里太兵衛にまつわるエピソードも紹介したいと思います。母里太兵衛とは、黒田官兵衛の精鋭集団の中でも群を抜いて戦功を挙げた猛将。槍の名手として戦場では常に先陣を切って活躍し、民謡「黒田節」にある、福島正則から名槍日本号を飲み取った逸話でも知られます。太兵衛は主の命によって、母方の姓を名乗っているのですが、この母というのが出雲国母里(後の母里藩)の出だという説があります。母里太兵衛ゆかりの地ということで、市内の有志が顕彰会を立ち上げ、地域の活性化に取り組むなど、盛り上がりを見せていました。

「昔ながら」を訪ねて

安来らしさを求めて、市内を訪ね歩いてみました。最初に訪れたのは、大正15年創業のしょうゆ店。

昔ながらのしょうゆ造り
「富山の置き薬は有名ですが、島根には置きしょうゆがあります」と話すのは、大正屋醤油の山本周作さん。御用聞きに訪問した際、あらかじめ置かせてもらっているしょうゆ箱をチェックし、なくなっていたら新品と交換していく仕組みで、メーカー自らが行っています。島根県には組合に所属しているしょうゆメーカーだけで60社もあり、他の都道府県に比べると圧倒的に多いのです。その多くが家族経営規模の店ですが、これほどたくさんのしょうゆ店が存在する理由は、置きしょうゆの仕組みが残っているからだと山本さんは話します。勝手に家に入って箱をチェックしていくため、セキュリティーの厳しい最近の住宅事情ではなかなか継続しにくい慣習ですが、現在でも山本さんの店では約500軒に納めています。

地元の減農薬大豆に、地元の小麦を使うのが大正屋のしょうゆ造り。巨大な杉桶にすみ着く何百種類もの菌の働きに任せて発酵させる、昔ながらの製法です。山陰のしょうゆの特徴は、抽出したしょうゆにもう一度麹を入れて仕込む濃い口タイプであること。中でも、火入れ殺菌や濾過もせずに、もろみをゆっくり絞っただけの生醤油がこちらの自信作です。身体に良い微生物を含んだしょうゆをそのまま瓶詰めするため、味や香りにとがったところがなく、まろやかな味わいに仕上がります。

次に訪れたのは、鳥取県との県境の山中の建物。大正の頃、農家の親方の住まいとして建てられた2階建ての古民家です。ずっと空き家になっていたものを、会社役員の本間順一さんが買い取って改修・整備しました。古民家は2007年に、伯太文化伝承館として生まれ変わり、山村文化を後世に伝える役目を果たすこととなりました。養蚕に使われていた2階広間には、前の持ち主が収集していた骨董品や、近隣から集めた古い農具が展示され、1階部分は民宿としても利用出来る多目的スペースとなっています。宿泊者は、春は山菜採りに汗を流し、ホタル舞う夏は縁側で涼み、秋には収穫体験、冬は囲炉裏を囲んで暖を取るといったひと昔前の田舎生活を体験することが出来ます。以前、定年退職した老夫婦がこの古民家を拠点に、バスと電車を使って日中は鳥取砂丘や出雲大社へと出掛け、夜は五右衛門風呂で疲れを取り、蚊帳の中でゆっくり休むという長期滞在をしたという話を聞きました。時間に余裕があれば、思う存分田舎体験をしてみるのも悪くありません。

2014年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)

▼島根県安来市

島根県の東部、鳥取県との県境に位置します。『出雲国風土記』によると、神代の昔、スサノオノミコトがこの地方に国境を作った際に言った「吾が御心は安平(やす)けくなりぬ」が、地名の由来と伝えられています。古くから良質の砂鉄が採れ、製鉄が盛んでした。江戸時代には、松江藩とその支藩(広瀬藩・母里藩)が置かれ、山陰道が通る港町として、和鉄や蔵米の集散地として発展しました。2004年10月1日、安来市、広瀬町、伯太町の合併で、新生「安来市」が誕生しました。

写真説明

●昔ながらのしょうゆ造り:巨大な杉桶にすみ着いている菌だけで発酵させます(撮影協力:大正屋醤油)


●豊富な竹林を背景に、旧伯太町の特産品にもなっている竹炭。水質浄化や調湿効果、脱臭効果があり、近年とみに人気が高まっています(撮影協力:上十年畑やまこ会)

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