伝統を進化させてゆくものづくりの町のチャレンジ - 府中

若葉家具のショップ「くらしの音のとこ」

婚礼セットを生んだ府中家具の新たな挑戦

古代備後国の国府が置かれた府中は、江戸時代には石州街道の宿駅が置かれ、木綿や藍、煙草といった産物の集散地となりました。木工や繊維、醸造などの地場産業も発達。たんすなどの箱ものに代表される府中家具の歴史は、江戸中期に始まっています。

衣装だんすの登場は、江戸時代寛文年間(1661~73年)のことで、大坂から各地へ普及したと考えられています。その大坂でたんす作りを習得した内田円三が技術を持ち帰ったのが、府中家具の始まりです。府中のある備後地方には松永下駄や福山琴の産地もあり、桐材を始めとする豊富な木材に恵まれていたことがうかがえます。

昭和30年代後半、婚礼家具セットを開発して世に送り出したことで、府中家具の名は一躍全国に知られるようになります。それまで単品で作られていた和だんす、洋服だんす、整理だんすを統一のデザインでそろえた婚礼家具は、たちまち人気を博しました。間もなく団塊の世代が結婚ラッシュを迎えると、府中の婚礼家具セットは生産が追いつかないほどでした。

府中家具工業協同組合の第12代理事長を務めた若葉家具会長の井上博昭さんは、府中家具の特徴をこう話します。
「良質な素材を吟味して使った、しっかりした造りと、洗練されたデザイン、塗装仕上げの高い技術が特徴です。早くから合同展示会を開いて各メーカーが切磋琢磨し、組合で塗装の研究所を作るなどして技術を高めて、日本一の評価を得たのです」

そんな府中家具にとって大きな転機となったのが、阪神大震災です。それまでも住環境の変化などで大型家具の需要は減少していましたが、地震によるたんすの転倒被害が問題視され、置き家具から作り付けへの転換が加速。以来、各メーカーは婚礼家具からの脱却を模索して試行錯誤を重ねてきました。

kitoki
若葉家具のkitoki

現在、若葉家具が主力とするのは、環境に配慮した森林管理下で供給されるアメリカ広葉樹を使い、自然塗料を使うなど安全にも配慮したkitoki(きとき)ブランドです。家具デザイナー小泉誠氏によるシンプルなデザインで、トレイなどのテーブルウェアからベッドまで、木の温もりを感じさせる製品を生み出しています。

主にオーダー家具の製造を行い、トヨタのクルーザーの内装家具も手掛けて、独自の路線を歩むのは高橋工芸。高橋正美社長は府中家具の現状を見据えて、海外へと打って出ました。

高橋工芸の工場

「婚礼家具の印象が強い府中は、他の産地より厳しい状況にある。だからこそ世界で評価されるものづくりを目指そうと、スウェーデンやドイツのデザイナーを起用し、ヨーロッパの見本市に出展してきました」

そうして生まれた、MEETEE(ミッティー)は、西欧人が感じる和を表現した洗練されたデザインで、見本市でも高い評価を得ました。

備後絣
織り上がった布地を確認する検反作業

現代に生きる備後絣

江戸時代に備後国芦田郡で始まった備後絣は、久留米絣、伊予絣と並び称され、昭和30年代半ばには全国生産量の7割を占めるまでに発展しました。今も備後絣の生産を続けるのは福山市と府中市にそれぞれ1社ずつ、2社だけになりました。

府中市中須町にある橘高兄弟商会は大正9年創業。現在は社長の橘高昌子さんの下、息子の展広さんが生産を担当しています。東京の大学で経済を学び営業職に就いていた展広さんは、2005年に府中に戻って家業を継ぎました。染織については、長年工場で働いていた70代から80代の元職人に一から教わりました。その伝統的な技術に自ら工夫を加えながら、原糸の染色から織りまでの工程を一貫して行います。

絣は本来、幅約36cmの小幅の織物ですが、現在は服地に適した幅約1mの広幅の生地を織っています。橘高兄弟商会では、和装用の需要が激減すると、一時デニムの生産に活路を求め、この時にシャトル織機を導入して広幅に移行しました。伝統的な絣は厚みのあるしっかりとした生地ですが、透けるような軽やかな生地から厚地の生地まで、用途に合わせて織り上げます。

のこぎり屋根の織物工場の外には、深い藍色に染め上げられた糸が干されていました。

「東京オリンピック・パラリンピックのロゴは、藍色の市松模様です。オリンピックに向けて、伝統の藍と絣を生かした新しい生地を織ってみたい」
展広さんは新たな挑戦に取り組もうとしていました。

備後絣
染めの作業を繰り返した深い藍色の糸

府中の人々に愛されてきた味

山陽道から分かれて石見銀山へと至る石州街道は、銀山街道とも呼ばれます。府中で造られるきめ細やかで上品な甘みの白味噌は、この街道を通じて各地へもたらされて評判を呼びました。

金光味噌
金光味噌の白味噌
石見銀山から上下の宿駅を経て平地へ下りた所が、現在の府中市出口町で、街道の風情を残した通りには石州街道の道標が立ちます。この旧街道沿いに店舗と工場を構えるのが、明治5年創業の金光味噌です。

白壁の町並みの一角にある金光味噌の工場を訪ねると、意外にも、フランス語表示のパッケージに入った白味噌が出荷を待っていました。カナダ向けの商品だそうです。輸出を始めたのは1972年のことで、現在は出荷する味噌の5割以上が北米やヨーロッパなどの海外向け商品です。金光味噌は1982年から有機無農薬の素材を使った味噌造りに取り組み、欧米の厳しいオーガニック(有機)認証を取得しています。

金光康一社長は、幼い頃にベルボトム・ジーンズをはいたヒッピーらしき欧米人が時折店を訪れていたのを覚えています。自然回帰の志向から化学調味料を使用しない食品を求め、健康的な日本の食文化に強い関心を寄せた彼らに刺激を受け、先代の社長がいち早くオーガニックの味噌作りに取り組んだといいます。

海外では「Smart Miso」の名前で売られている金光味噌の白味噌は、そのまま野菜に付けたり、スープの調味料にしたりして、日々の食生活に取り入れられています。

府中の食を語る上でもう一つ外せないのが「府中焼き」。広島のお好み焼きは生地に野菜や卵などの具材を重ねて焼くのが特徴。焼き方や、そばかうどんを入れる点は府中焼きも同じですが、違うのは豚肉や牛肉のミンチ肉を使うこと。ミンチ肉の脂で表面がカリっと、中はフワっと焼き上がります。

府中焼きの店、一宮で使うのは牛ミンチ。見た目にミンチ肉は見当たりませんが、食べてみると、香ばしいうま味が感じられます。「地元ではトッピングなし、マヨネーズもなしで、ソースは辛めの『カープソース』を使うのが主流。学生時代には部活帰りに2、3枚を平気で食べていました」と、能島修社長は話していました。

府中焼き
府中焼き

市内には約40の専門店があり、それぞれに特徴があります。一宮の店がある「キラテラスふちゅう」は、町歩きの拠点として市が作った施設で、観光案内所の隣に、府中焼きの店が2店舗あります。府中焼きのおいしさを広く知ってもらうと同時に、郷土の味を継承する若い担い手を育てることを目指しています。

2018年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)

▼広島県府中市

広島県東南部に位置し、標高400~700mの山に囲まれた市域の中央部を芦田川が貫流しています。福山市、三次市、尾道市などと隣接。「府中」とは律令時代の国府の所在地のこと。広島県府中市には備後国の、同名の東京都府中市には武蔵国の国府が置かれていました。市町村名としては他に、広島県安芸郡府中町があります。江戸時代には石州街道の宿駅が置かれて物資の集散地となりました。また木工業や繊維産業、醸造業などの地場産業も芽生えて「ものづくりの町」として発展しました。明治期以降は、金属・機械工業が急激に成長。電動工具大手のリョービや、工作機器の北川鉄工所が本社を置いています。
【交通アクセス】
市中心部まで山陽自動車道福山西インターから17km、尾道インターから21km。主要道路は国道486号線。
山陽新幹線福山駅からJR福塩線の府中駅まで約45分。市内には他に7駅があります。

写真説明

●若葉家具のショップ「くらしの音のとこ」:かつてのショールームを、気軽に人が集える温もりある空間にしました(Tel.0847-45-5816)
●若葉家具のkitoki:環境に配慮したkitokiの家具は、自然オイル塗装で仕上げます
●高橋工芸の工場:主に1点もののオーダー家具を手掛けています(Tel.0847-45-2323)
●金光味噌の白味噌:良質の大豆に麹、沖縄の塩シママースを使った白味噌は、まったりとした甘味とうま味があります
●府中焼き:子どもから大人まで府中市民に愛されるソウルフード。カウンターに座って、鉄板の上から食べるのが定番のスタイル(一宮:Tel.0847-54-2419)


●若葉家具・kitokiの椅子とスツール。椅子の座面は備後デニムのテキスタイル


●高橋工芸のMEETEEブランド、FIVEシリーズのテーブルとスツールは、円と五角形を組み合わせたユニークなデザイン


●明治5年に開業した旧旅館「恋しき」には、犬養毅、井伏鱒二ら多くの政治家、文化人が宿泊した。木造3階建ての主屋と離れ5棟が国登録有形文化財に指定。現在は町屋Cafe&Diningとして活用されています

●上下の町並み:上下は石州街道の宿場町の一つで、幕府の天領でもありました。石見銀山から大坂へ運ばれる銀の中継地として宿屋や商家が軒を並べ、代官所の庇護の下で金融業も発展しました。現在も白壁の建物が往時の繁栄ぶりをしのばせます。格子やなまこ壁など伝統的な建物の中で、ひときわ目を引くのが日本キリスト教団上下教会堂。明治時代に地元の富豪角倉家の蔵として建てられ、1951(昭和26)年に教会のために譲渡されました。屋根の上の塔は火の見やぐらで、その心棒に十字架が取り付けられたそうです。

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