里山里海の豊かな恵みと伝統を守り受け継ぐ能登の人々 - 能登

船凍イカ
小木港に荷揚げされた船凍イカ

取れたて新鮮小木の船凍イカ

能登半島の先端近くにある能登町の海岸は富山湾に面し、条件がそろえば海越しに雄大な立山連峰が見えます。日本海に面した外浦の荒々しさに比べて、富山湾側の内浦は波も景観も穏やかです。

入り組んだリアス式海岸が天然の防波堤をなす小木港は、藩政時代は北前船の風待ち港でもありました。古くはタラ漁が盛んで、その餌用にイカを取ったのが小木のイカ漁の始まりと言われます。同じ町内の宇出津港には定置網漁で季節ごとに豊富な魚が揚がるのに対し、小木沖は深く落ち込んだ溺れ谷で定置網には不向きでした。そこで明治になると、小木の漁師たちはイカを追って北の海を目指し、新たな漁場を開拓していきます。戦後は船の大型化と冷凍技術が進み、小木港は青森の八戸、北海道の函館と並ぶ船凍スルメイカの荷揚げ基地となりました。

スルメイカは春先に南の海で産卵し、夏は北海道周辺海域へ北上します。小木港には中型イカ釣り漁船約20隻が所属し、6月から約半年間、日本海を回遊するスルメイカを追い掛けます。1回の出漁で1カ月ほど操業し、釣り上げたイカはすぐにマイナス40度で急速凍結されます。

取材時は2隻の船が港に入り、荷揚げが行われていました。船底の冷凍室からベルトコンベアーで降ろされる船凍イカには、ブロック状の物と「船内一尾凍結いか」と書いた箱詰めがあります。一尾凍結は小木で開発された冷凍技術。1パイずつ冷凍されているので扱いやすく、そのまま消費者の元へ届けることも出来、小木イカの評価を一躍高めることになりました。

その鮮度は色で分かると話すのは、小木イカの加工を手掛ける㈱和平商店の浅井園子専務。イカは取れたて直後は半透明で、30分ほどで濃い茶色になり、時間が経つにつれ白く変わっていきます。新鮮さを示す濃い茶色をした船凍イカは、港に荷揚げするとすぐに冷凍車に積まれ、刺身にも出来る鮮度を保ったまま出荷されていきます。

奈古浦港
奈古浦港

いしり料理
いしり料理の定番・貝焼き
その小木イカで作られるのが「いしり」と呼ばれる魚醤です。能登地方には能登杜氏が醸す地酒やなれ鮨など豊かな発酵文化があり、調味料も地元で豊富に取れる魚介類で作られてきました。イカの他にイワシやサバを原料にした物もあり、輪島など外浦では「いしる」と呼ばれます。

小木漁港にある㈲カネイシのいしりの原料は、地元の人が「ゴロ」と呼ぶスルメイカの内臓と塩。塩をまぶした内臓をタンクに漬け込み、1年から2年かけて発酵、熟成させます。仕込みは春。気温の上がる梅雨時から夏にかけて盛んに発酵し、タンクの中身が膨張して、櫂棒を入れるとビールを注いだようにボコボコと泡が立ちます。その後、気温が下がると共に静かに熟成が進んで、底に沈殿した液体がいしりになります。

独特の香りとうまみを持ついしりは、能登独特の調味料として地元だけで消費されるものでした。カネイシ3代目の新谷伸一さんは、そのいしりを全国に広めようと挑んできました。大学卒業後、東海地方の業務用食材問屋で営業を担当していた新谷さんは、新たな味を求める板前との出会いを通じて、いしりの可能性に気付いたと言います。

20年前に家業を継いで販路拡大を目指しましたが、そう簡単にはいきませんでした。しかし10年ほど前、経済産業省のジャパン・ブランド育成支援事業でカネイシのいしりがアメリカ・ニューヨークでの展示会に出品されると、知名度は一気に向上。製造量は先代の頃に比べて5倍に増えました。いしりは和食はもちろんのこと、オリーブオイルとの相性も抜群。今ではニューヨークやロサンゼルスにも出荷され、能登の豊かな食文化を海外にも発信しています。

野鍛冶
能登の野鍛冶

能登の営みを支える野鍛冶の仕事

海と山の恵みを享受し折々に感謝を捧げる能登地方の伝統は、2011年に「能登の里山里海」としてユネスコの世界農業遺産に認定されました。その営みに欠かせないのが野鍛冶の仕事です。

漁師町の宇出津にあるふくべ鍛冶は、魚用を主に海と山両方の道具を作ります。創業は1908(明治41)年。現在は2年前に町役場を退職した干場健太朗さんが、3代目の父勝治さんの元で修行に励んでいます。

宇出津港に近い商店街にある店舗には、漁師の万能刃物「マキリ」や、この辺りの家庭では必需品だという出刃包丁に刺身包丁、畑や山で使う鍬や鉈など多種多様な道具が並びます。鍬一つとっても、刃先が丸い物や四角い物、タケノコ掘り専用と用途によって形状が異なっています。使う人にはそれぞれの使い方や工夫があり、それを教わって形にしてきたのが野鍛冶だと話す4代目の干場さん。そうして教えられた知恵の中から、新たな商品が生まれたこともあります。鮮魚店の人たちの声をヒントに開発したサザエ開けは、全国の海女や寿司職人から絶大な支持を得ました。

ふくべ鍛冶には年間4000点以上の品物が修理に持ち込まれます。作り手は客とのやりとりから学び、使い手は良い物、愛着のある物を長く大事に使い続けるという良き関係が、ここでは今も続いているのです。

「鍬であれば、刃が丸くなってきたら先を研ぎ、焼き入れをして鋼を固くします。長く使ううちに鋼が減ったら、刃を継ぎ足す『先掛け』で新品同様になる。1本の鍬を買って頂いて、そこから長い付き合いが始まります。うちの2代が作った鍬が修理に持ち込まれることもあって感慨深いです」(干場さん)

野鍛冶
ふくべ鍛冶の道具類
古い刃物の中には伝統的なたたら製法の鉄で作られたものもあり、すっかりさびついた包丁から良質の鋼が現れることもあると言います。干場さんは更に、冬期を除く週2回、真っ赤なバンで各集落を回り、販売と修理を行う出張サービスも始めました。年々人口が減り高齢化が進む町で、重い刃物を運んで来るのは大変だという声を耳にしたからです。ふくべ鍛冶の初代は集落を回り農家の土間などを借りて仕事をしていたそうで、出張サービスはその現代版とも言えるでしょう。ちなみにふくべ(=ひょうたん)の屋号は、酒好きで腰にひょうたんを下げていた初代のあだ名とのこと。

野鍛冶の仕事には鍛造だけでなく溶接や木工など幅広い技術がいります。現在36歳の干場さん、一通りの仕事を身に着けるには15年掛かると3代目に言われ、時間が足りないかもしれないと考えました。父の技術を絶やさないために、社員3人と専門分野を分担して教わり、5年で習得する計画を進めているところです。柔軟なアイデアと行動力で新たな風を起こしながら、能登の野鍛冶を受け継ごうとしています。

2017年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)

▼石川県能登町

2005(平成17)年に鳳至郡能都町、柳田村、珠洲郡内浦町が合併し、これに伴い新設された鳳珠郡の所属となりました。富山湾に面した海岸地域と丘陵地で構成され、豊かな里山・里海の伝統文化や風習を数多く残します。春から夏、豊漁や豊作を祈願する祭では「キリコ」と呼ばれる奉燈が御輿を先導して練り歩き、御輿を海や火の中に投げ込む勇壮な宇出津のあばれ祭、巨大なキリコが並ぶ柳田大祭など地域ごとに特色ある祭が伝承されています。2011年には能登町を含む「能登の里山里海」がユネスコの世界農業遺産に認定されました。
【交通アクセス】
05年にのと鉄道能登線が廃線になり現在鉄道はありません。金沢駅からIRいしかわ鉄道・JR七尾線・のと鉄道七尾線で穴水駅まで2時間余り、穴水駅から町役場のある宇出津までバスで約50分。
金沢市中心部からのと里山海道、珠洲道路を経て約1時間25分。能登空港からは約20分。

写真説明

●小木港に荷揚げされた船凍イカ:荷揚げ後は手早く仕分けされて、すぐに出荷されていきます
●奈古浦港:小木港の隣にあり、停泊するのは、近海の地イカを取る小型イカ釣り船
●いしり料理の定番・貝焼き:野菜や魚を漬けたり醤油と同様に使えますが、塩分が強いので少量にするか濃度を調整します(協力/民宿田の浦荘 Tel.0768-62-0332)
●能登の野鍛冶:工場で鍬の柄の付け替え修理を行うふくべ鍛冶4代目の干場健太朗さん
●ふくべ鍛冶の道具類:写真上から、ちょっとしたコツさえつかめば生のサザエが簡単に取り出せるサザエ開け、漁師が綱を切ったり魚をさばいたりするのに使うマキリ、小魚をさばくのにも適したイカさき包丁(協力/ふくべ鍛冶 Tel.0768 -62-0785)


●港に近い和平商店では、地元の婦人たちが慣れた手つきでイカをさばき加工作業を行います(協力/㈱和平商店 Tel.07 68-74-0055)


●新鮮な小木イカを使った一夜干しや生姜甘味噌を詰めた鉄砲焼きなど加工品の数々



●熟成してタンクに沈んだいしりは、発酵を止めるために火入れし、濾過した後に製品となります(協力/㈲カネイシ Tel.0768-74-0410)

●カネイシの各種いしり製品

●柳田とうふ:昔ながらのおいしさで評判の高い柳田地区の石田豆腐店は、地元の人たちに愛されているのはもちろん、わざわざ遠方から訪ねてくる人もいます。店主の石田誠さんによると、おいしさの決め手となるのは隣接する珠洲の揚げ浜塩田で出るにがり。天然にがりが大豆の甘味を引き出すのだと言います。かつては客が鍋を持参して買い求めていた大きな一丁豆腐は、「豆腐はこれでなくては」という客のたっての希望で数量限定で生産。他にも、カットした木綿豆腐を水切り板に並べてしっかり水を切り、じっくり焼き上げた焼き豆腐や、外側は油揚げのようにふっくら、中身はしっとりした厚揚げなど、手作りならではの味わいがあります(取材協力/石田豆腐店 Tel.0768-76-0218)


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