錦秋の耶馬渓と城下町・中津を訪ねる - 中津

鳶ノ巣山
深耶馬溪、一目八景の鳶ノ巣山

岩また岩の奇勝耶馬渓

切り立った岩山を、彩り豊かな紅葉が染めます。九州随一の紅葉の名所として名高い耶馬渓の中でも、深耶馬渓の一目八景はモミジやカエデ、ハゼなど落葉樹の種類が豊富で、秋の深まりと共に鮮やかに色を変えていきます。岩と木々が織りなす八つの景色が一望出来るという一目八景には、鳶ノ巣山、群猿山、仙人岩などと命名された奇峰や奇岩が連なります。

この一帯は昔は川の名をとって山国谷と呼ばれていましたが、江戸後期の儒学者頼山陽が『耶馬渓図巻記』に「耶馬溪山天下無」と詠んでたたえたことから、その名になりました。1950(昭和25)年には、天領だった日田、修験道の聖地である英彦山と共に、耶馬日田英彦山国定公園に指定されています。

広く耶馬渓と呼ばれる地域は本耶馬渓、深耶馬渓、裏耶馬渓、奥耶馬渓に分かれます。太古の昔には九州は南北二つの島に分かれ、この山深い渓谷は海の底でした。火山の爆発によって溶岩台地が形成され、それが浸食されて生まれたのが耶馬溪の奇勝です。火山の爆発は3回あったと考えられ、流れ込んだ溶岩の性質の違いが景観にも表れています。深耶馬渓の岩はきめ細かで浸食されにくく、岩肌は滑らかで、川底が巨大な一枚岩で出来た渓谷もあります。一方、本耶馬渓の岩は浸食されやすく洞穴が生じやすくなっています。

本耶馬渓の見所は山国川に沿って岩峰が並ぶ競秀峰と、その断崖の下に禅海和尚が掘り上げた青の洞門です。競秀峰の通行路は岩場に並べた板を踏み、鎖を伝い歩く難所で、転落し命を落とす人も多くいました。諸国遍歴の途上で人々が難渋する様を見た禅海は、独力で洞門の掘削を開始し、やがて村人も手を貸すようになります。

羅漢寺
羅漢寺
1期工事を終えると、人は4分、牛馬は8分の通行料を徴収して2期工事の費用とし、1764年に全長342mの洞門を完成させました。この逸話を基にした菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』で、禅海と青の洞門は一躍世に知られることになりました。競秀峰の下には今は国道が通っていますが、ノミと鎚だけで掘られたトンネルの一部が保存されています。

禅海の遺品を納めた禅海堂のある羅漢寺も、険しい岩山の中腹にあります。縁起によれば、645年にインドから渡来した法道仙人がこの地で修行したのが寺の起こりで、平安時代には山岳仏教の霊地となりました。1337年、円龕昭覚禅師が中国の天台山にならって寺を築いて、十六羅漢と五百羅漢の石像を安置します。羅漢信仰が盛んになった江戸時代には、救いを求める多くの人々が競秀峰の難所を越えて参詣しました。

岩肌にしがみつくように建つ山門を入ると、天然の洞窟に五百羅漢が並ぶ無漏洞があります。中央には十大弟子に囲まれた釈迦如来が座し、その説法を聞こうと耳を傾ける羅漢像は喜怒哀楽の表情豊かな親しみやすい姿をしています。

無漏洞の奥に岩にはめ込むように築かれた本堂は、火災で焼失した後に1969年に再建されたものです。境内には羅漢像や室町時代に納められた千体地蔵など3千数百体の石仏があります。2014年には日本最古の五百羅漢として、境内の全ての羅漢像が国の重要文化財に指定されました。

この由緒ある寺を守るのは、父の後を継ぐため40歳で出家した尼僧の太田英華さんです。その説明によれば、無漏洞とは「煩悩のない境地」を意味します。
「心を静めて向き合えば、羅漢様が語り掛けてくるはずです。それを感じ取ってほしい」と話していました。

官兵衛が築いた中津の城下町

耶馬渓を流れ下った山国川は、周防灘へと注ぐ河口付近で二つに分かれます。その一方の中津川のほとりに中津城を築いたのは、豊臣秀吉の九州平定後、豊前国6郡を与えられた黒田孝高、通称・黒田官兵衛です。中津は豊前国のほぼ中央に位置し、瀬戸内海へ通じる周防灘に面した交通の要所。官兵衛は中津川を天然の堀として城を築き、港や町割を整えました。城の周辺には、官兵衛が姫路や京から連れてきた商人たちが住んだ姫路町、京町といった地名が今も残っています。

中津城
中津城

2014年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の放映により、中津には多くの観光客が訪れて、かつてないにぎわいを見せました。官兵衛、長政の2代、関ケ原の戦いの勲功で筑前国に移るまで13年間にわたりこの地を治めた黒田氏ですが、これまで中津での評判は決して高くなかったといいます。

秀吉の命にそむいた宇都宮鎮房を謀殺し、400年間この地を守ってきた宇都宮氏を滅ぼした敵という見方が多かったのです。ところが10年ほど前、中津の町の基盤を築いた黒田官兵衛を顕彰する会が発足し、その動きは大河ドラマの誘致へと発展。8年越しの努力が実を結んで、これを機に地元でも黒田氏の功績が再評価されています。

黒田氏の後、細川氏、小笠原氏、奥平氏と続く領主の居城となった中津城の城趾には、1964(昭和39)年に奥平家歴史資料館として天守閣が建造されており、黒田時代の石垣が残ります。本丸の南側では穴太積みの技法で築いた自然石の石垣が見られ、北側には上流の遺跡から持ち出した四角い加工石を使った石垣が残り、後の細川時代の石垣との境目がくっきりと見えます。また城下の寺町にある合元寺には、宇都宮家の家臣が討ち死にした際の刀傷が今もはっきり刻まれています。

福澤諭吉旧居
福澤諭吉が青年時代を過ごした旧居

城下にはもう一つ、中津を訪れたらぜひ足を運びたい場所があります。城の東側、下級武士の住まいがあった場所に残る福澤諭吉の旧居です。大坂の中津藩蔵屋敷で生まれた諭吉は1歳6カ月で父と死別して帰郷し、蘭学を学ぶために19歳で長崎へ出るまで中津で過ごしました。

木造茅葺きの住居の裏手には諭吉が勉強部屋にしていたという土蔵があり、隣に建つ記念館では遺品や書簡などの資料を見ることが出来ます。慶応義塾を開いて教育と文明開化に尽くした諭吉は、郷里中津でも中津市学校の開設に尽力。また競秀峰付近の山地が売りに出されたのを知ると、一帯の土地を購入してその景観を守りました。中津の人々が誇ってやまない郷土の先人です。

2015年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)

▼大分県 中津市

福岡県との県境に位置し、県内では大分市、別府市に次いで人口が多い県北部の中心都市。市の中心部は周防灘に面し、05年に景勝地の耶馬溪を含む山間部の下毛郡4町が合併し、新しい中津市となりました。中津は黒田孝高(官兵衛)が城を築いて以来の城下町。幕末の中津藩出身者には、福澤諭吉や藩医だった前野良沢がいます。現在はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の放映に伴って観光客が増加、大きな盛り上がりを見せます。また市内に鶏唐揚げ専門店が多数あることから、近年は「中津からあげ」が注目を集めています。
【交通アクセス】
JR小倉駅から中津駅まで日豊本線特急で32分。
北九州空港から約1時間。2016年には東九州自動車道の椎田南-宇佐間が開通し、中津ICが開設されました。

薦神社
薦神社内宮

写真説明

●羅漢寺:岩山にへばりつくようにして建つ本耶馬溪の羅漢寺。千体地蔵を納めたお堂の向こうに山門が、更にその先に無漏洞があります
●薦神社内宮:八幡総本宮・宇佐神宮の祖宮、薦(こも)の内宮は三角池(御澄池)と呼ばれる池で、この池に自生するマコモで作った薦枕が八幡神のご神体とされます。荘厳な神門は国の重要文化財に指定されています


●屹立する競秀峰の岩壁の下に青の洞門があります

●五百羅漢が安置されている無漏洞

●中津名物と言えば鱧(はも)。夏の食材の印象が強いですが、中津では1年を通じて食します。目の前の海で捕れる新鮮な鱧は刺身の他、冬にはしゃぶしゃぶ、土瓶蒸しに。鱧しゅうまい、鱧かつ丼など幅広い料理が楽しめます

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