土佐の山間から卓越した人材を世に送り出した文教の町 - 佐川

司牡丹酒造
司牡丹酒造の酒蔵

郷校・名教館と伊藤蘭林

坂本龍馬を筆頭に、幕末の土佐藩からは個性豊かな人物が出ました。高知市の西に位置し周囲を山々に囲まれた佐川では、脱藩志士で明治政府の要職を歴任した田中光顕や、日本の植物学の父・牧野富太郎など傑出した人材が育まれました。

藩政時代に佐川 を治めたのは土佐藩の筆頭家老深尾氏です。初代重良は関ケ原の戦いの後に土佐藩主となった山内一豊に従って入国し、佐川1万石を与えられました。

1772年、6代茂澄が深尾家の子弟を教育する家塾「名教館」を開き、後にそれが拡張されて郷校となり、家臣の教育に力を注ぎます。そのため多くの儒学者が出て「佐川山分学者あり」(「山分」は山がたくさんある所の意)と言われました。

この名教館で学んだ儒学者の伊藤蘭林は、自ら教授となって多くの生徒を教えました。蘭林は和漢の才に長けていただけでなく、天文、科学、文学、音楽など多方面に通じ、学問だけでなく武芸にも優れた文武両道の人でした。

教え子は、田中光顕の他、港湾建造の第一人者として小樽港に日本初のコンクリート製外洋防波堤を築いた広井勇、ブラジル移民を計画し第1回移民団を率いて海を渡った水野龍など、幅広い分野で活躍しました。

名教館は明治維新後、廃校の危機に見舞われたましが、佐川の有志によって義校・名教館として存続され、庶民にも門戸が開かれました。酒造を営む家に生まれた牧野富太郎は、蘭林の私塾とこの義校で学んでいます。富太郎の自伝には明治5、6年、10歳頃の話としてこんな一節があります。

酒蔵通り
酒蔵通り
「その頃の名教館では以前と異なり、日進月歩の学問を教えていた。そこでは訳書で、地理・天文・物理などを教えていた。その頃物理のことを窮理学といっていた。その時習った書物を挙げると、福沢諭吉先生の『世界国尽』、川本幸民先生の『気海観瀾広義』(これは物理の本で文章がうまく好んで読んだものである)、又『輿地誌略』『窮理図解』『天変地異』もあった。ここで私ははじめて日進の知識を大分得た」(『牧野富太郎自叙伝』)

牧野はその後通った小学校を中退して独力で植物学を学び、やがては東京帝国大学から理学博士の学位を得ますが、その基礎を培ったのが蘭林と名教館の教えだったのでしょう。

「自由民権運動の板垣退助が高知に立志社を作ると、佐川には支社の南山社が設立されました。その最初の会合で第一声を発したのは牧野富太郎と水野龍です。一方は植物学、一方はブラジル移民の祖として活躍した2人が自由と平等の旗を振った辺りに、文教の町と言われる佐川の神髄があるのではないでしょうか」
そう話すのは、南山社の会合が持たれたという古刹、乗台寺の種田快盛和尚です。

明治7年、佐川小学校の誕生と共に名教館はその歴史に幕を閉じましたが、建物の玄関部分は小学校の敷地に保存され、現在は上町地区に移築されています。上町地区には司牡丹酒造の蔵や白壁の商家が並び、趣あるたたずまいを見せます。

佐川の酒造りは、深尾氏に従ってきた御用商人の御酒屋によって始まり、清らかな仁淀川の伏流水に恵まれて発展しました。その伝統を受け継ぐのが司牡丹酒造で、「司牡丹」の名は宮内大臣を務めた田中光顕による命名です。一帯には、維新の生き証人として志士の顕彰に尽くした田中光顕の収集資料を展示する青山文庫や、牧野富太郎の生家跡、深尾家の菩提寺青源寺などもあり、佐川の歴史と文化に触れることが出来ます。

愛情たっぷり育まれた佐川の産品

佐川には町の人たちに愛される地酒ならぬ「地乳」があります。「さかわの地乳」を製造する吉本牛乳は今年で創業100年。町内産の新鮮な生乳を使い、昔ながらの製法で牛乳を作り続けてきました。

現在は町内の酪農家4軒で絞られた生乳だけを使います。いずれも家族で経営する小規模の酪農家です。それだけに手塩にかけて乳牛を育て、共同で飼料用米を作るなどしながら、安全で質の高い生乳を生産しています。

乗台寺庭園
乗台寺庭園

さかわの地乳は味が濃いのにサラリとさわやかな飲み心地で、とてもおいしいです。4軒の酪農家から工場に集められた生乳は85度で15分間かけて殺菌され、豊かな風味そのままの牛乳になります。

吉本牛乳の製品は佐川町のある高岡郡内の町村や高知市の一部で販売され、宅配も行われています。町内の小学校の給食で出されるのも、さかわの地乳です。子どもの頃からその味に慣れ親しんだ人は、他社の牛乳を飲むと味の違いに驚くといいます。取材に同行してくれた方も、初めてよその牛乳を口にした時には満足に飲めなかったそうです。

吉本牛乳に続いて訪ねたのは国産紅茶を生産する明郷園。遠く石鎚山を望む山の中腹に紅茶用品種「はつもみじ」の幼樹が育っていました。

はつもみじの茶園
はつもみじの茶園
仁淀川の流域ではかつて、紅茶の生産が盛んに行われていました。国産紅茶は明治政府が殖産興業の一環として奨励し、主に輸出用として生産されました。当初は国内にある茶樹で作られていましたが、もともと中国種の系統で紅茶には不向きな品種だったため、「べにほまれ」「はつもみじ」などの紅茶用品種が開発されます。

佐川町尾川地区では戦後到来した紅茶生産ブームに乗って、紅茶用品種の生産が盛んになりました。生産組合が発足し、山の斜面を利用して茶園が開かれて、最盛期の1960年頃には15haに及んだといいます。しかし71年に紅茶の輸入が自由化され、緑茶への植え替えが奨励されたことで、国産紅茶の生産に終止符が打たれました。

今から7年前、農協職員だった澤村和弘さんは、はつもみじの茶園が尾川地区にわずかに残り、かつての生産者の手で守られてきたことを知ります。この地区で生まれた澤村さんの記憶にある明郷紅茶生産組合の工場も、集落の奥にひっそり残っていました。澤村さんは農協を退職した後、その茶園を借りて収穫し、自らの農園でも栽培を始めて、紅茶作りに挑戦。県の茶業試験場に残されていたデータなどを基に試行錯誤の末、5年目にしてやっと商品化にこぎつけました。

はつもみじはインドのアッサム種をベースにした品種で、緑茶用品種に比べて葉が大きく細長いのが特徴です。

「紅茶の命は渋さ。はつもみじは渋味がすっきりしていて、後口良くすっと消えていく。ただ香りが独特で、色はオレンジ系でちょっと薄いんです。単体でもいいですが、他の品種と合わせることで良さを引き出すことが出来ます」
澤村さんは、べにほまれなど他品種とのブレンドについても研究し、おいしい国産紅茶作りに情熱を燃やしています。

2016年取材(写真/田中勝明 取材/河村智子)


▼高知県佐川町

清流仁淀川の支流、柳瀬川が流れる盆地に町が開けています。土佐藩主山内家の筆頭家老、深尾家の所領だった江戸時代から酒造の町として発展。上町地区にある司牡丹酒造では、江戸末期に建てられた長さ85mの白壁の仕込蔵が今も使われています。そんな伝統を重んじて、町は数年前に「地酒で乾杯を推進する条例」を可決しました。また、深尾氏は教育に力を注いだことから、牧野富太郎ら多くの優秀な人材を輩出しました。佐川城があった山は今、牧野公園として桜の名所になっています。町内では新高梨や栗、ブルーベリーなどの果樹栽培も盛んです。
【交通アクセス】
JR土讃線高知駅から佐川駅まで特急で30分、普通列車で1時間10分。
高知市内から国道33号線を松山方面へ約1時間。


写真説明

●司牡丹酒造の酒蔵:佐川は江戸時代から400年の伝統を受け継ぐ酒造の町。司牡丹酒造の酒蔵には高知でよく見られる水切り瓦が施されていました
●酒蔵通り:上町地区の酒蔵通りには司牡丹酒造の新旧の酒蔵と伝統的な商家の建物が並び、酒造業を営んでいた旧浜口家住宅にさかわ観光協会があります。名教館の他に、旧青山文庫の木造洋館も移築されています
●乗台寺庭園:佐川町には土佐三名園のうち青源寺庭園と別名ひさご園と呼ばれる乗台寺庭園の二つがあります。乗台寺庭園は藩政時代、2代目領主夫人の病気平癒祈願の成就を祝って築かれたと伝わります
●はつもみじの茶園:尾川地区に奇跡的に残っていた、はつもみじの茶園。最盛期の昭和30年代には周囲の山々の斜面にも茶園が広がっていました


●深尾家の家紋、梅鉢紋が掲げられた明教館の玄関

●薩長同盟の実現に貢献した田中光顕ら、5人の藩士が脱藩のために集まった町外れの赤土峠に、脱藩志士集合の碑が建っています

●インパクトのあるパッケージ・デザインは、高知の地場産品を多数手掛けるデザイナーの手によるものです

●紅茶をブレンドするためのテイスティング作業

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