大河筑紫次郎と共に歩んできた日本一の家具の町 - 大川
若津港導流堤 |
筑後川水運で開けた港町
関東の利根川、四国の吉野川と共に日本三大暴れ川の一つに数えられ、筑紫次郎の別名で呼ばれる九州一の大河筑後川。阿蘇山を源に、熊本、大分、福岡、佐賀の4県を流れ、有明海へと注ぎます。
中流域から下流域にかけては、藩政時代、久留米(有馬)、福岡(黒田)、佐賀(鍋島)、柳河(立花)の4藩が境界を接し、境界争いや水争いなどが頻発。互いの仲はかなり悪かったようです。そのため、藩領防衛を第一義に、筑後川への架橋は厳禁とされ、舟運が発達しました。最盛期には、この流域だけで62カ所もの渡船場があったといいます。
大川市は、その筑後川が有明海に流れ込む河口付近にあります。江戸時代には、北は久留米藩、南は柳河藩の領地となっていました。境界は町の中心を分断し、久留米藩側の榎津地区と柳河藩側の小保地区は「御境江湖」という掘割で仕切られていました。かつての肥後街道沿いには、藩境を示す境石の石列が、今も残っています。
榎津は、花宗川が筑後川に合流する川岸にあり、もともと水運の要衝として筑後川河口を守る小城下町でした。が、1751(宝暦元)年、久留米藩が農産物を始めとする物資輸送の拠点とするため、若津港を築港した後は、筑後川本流からやや町場に入った榎津は港町として大きく発展していくことになります。また、若津港も藩の目論見通り、筑後川水運と有明海航路を結ぶ物資の集積地として、筑後川最大の河港となり、筑後川の別称・大川にちなみ大川港とも称されるほどになりました。
明治以降も渡し場は続々増加。漁港も相次いで整備され、ノリやエツなどの漁業拠点として現在も12漁港があります。1935(昭和10)年に旧国鉄佐賀線筑後大川駅と諸富駅間に筑後川昇開橋が竣工しましたが、やはり船舶優先。船が通過する時には、橋の中央部が上方に動く昇開式可動橋として建設されました。
筑後若津橋梁 |
筑後若津橋梁 |
日本一の家具産地への道
若津港築港により発展した大川には、筑後川上流の豊後(大分県)日田から船や筏で杉も運搬され、木材の集積地ともなりました。そして、榎津地区では木材加工業も始まり、やがて日本一の家具産地として知られる基盤が、徐々に築かれていきます。
大川では、室町時代に船大工の技術を生かして指物を始めた榎津久米之介を、大川木工の開祖としています。もっとも、当時は主に船や船箪笥、収納箱を作っており、本格的な家具作りは江戸後期になってからのこと。
榎津生まれの大工・田ノ上嘉作が、大坂で指物の修行をした久留米の細工師に弟子入りし、箱物の技術を習得。これが榎津箱物の始まりと言われ、嘉作は中興の祖と呼ばれています。
明治に入ると、これら先人の技術を受け継いだ職人が多く輩出。明治10年頃には大川独特のデザインや機能を持った衣裳箪笥も生まれました。町村合併によって大川町が誕生した1889(明治22)年頃には、木工関係者が町全体の4分の1を占めるほどになりました。
国産の原木を扱う九州大川木材市場
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実際に大川家具の名声が爆発的に高まったのは戦後のこと。シンプルで機能性を追求した家具を手掛けた工業デザイナー・河内諒の功績が大きかったと言われます。
この頃、大川ブランドの家具は全国進出を遂げます。まず1953(昭和28)年、大阪で開催された「筑後物産展」で、改良された大川家具を発表。河内の尽力で東京との取引も始まり、モダンなデザインによって「家具の町・大川」の名は全国に広まっていきました。
昭和30年代後半には生産の近代化が進み、量産態勢を確立。大川を中心に1200の関連事業所が集まる一大産地を形成しました。戦後のベビーブームによる急激な結婚や新築のラッシュも手伝い、大川は日本一の家具産地となったのです
マーゼルンの本社工場
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インテリアシティ大川の挑戦
熊本市と佐賀市を結ぶ国道208号線が大川市に入ると、がぜん家具屋の数が多くなります。軒を連ねていると言っても過言ではないほどです。また、試しにグーグル・マップで「大川市 家具」と検索してみると、数え切れないぐらいの赤い丸印が出てきます。
が、地図の表示範囲を広げてみると、赤い丸はかつての中心地・榎津から周辺に大きく広がっていました。中には筑後川の対岸、佐賀県諸富町にも多くの丸印が見られ、特に昇開橋で若津と結ばれている諸富津に集中しています。
300年以上の歴史を誇る大川組子(木下工芸)
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諸富津周辺はかつて、筑後川沿いに倉庫が並んでいました。第2次世界大戦ではそれらが空襲の標的となり、終戦当時は焼け野原でした。昭和30年、大川と諸富を結ぶ大川橋と諸富橋が、相次いで完成すると、大川の家具業者が、諸富に進出するようになりました。
「諸富町の積極的な誘致もあったんですが、榎津などは住宅が増え、騒音やほこり(木くず)の問題で、工場を構えているのが難しくなったんです。それに戦後、家具の需要が飛躍的に増え、工場を拡張する必要もあったので、町場から周辺に産地が広がったのです」
諸富町で桐家具製造の株式会社マーゼルンを経営する向井昇さんが、そう説明してくれました。マーゼルンの工場前には、家具資材を扱う株式会社広津商会(広津和信社長)の大きな倉庫があり、インドネシアやマレーシア、ニューギニアから輸入された資材が、うずたかく積まれていました。
こうして時代の流れに応じ、いくつかの転機を経験してきた大川家具ですが、ここにきて、生活様式の変化や輸入家具の急増によって、かつてない危機に直面しています。
それでも、徹底した機械化によりコストを削減し、通販や生協など、従来とは異なる販路を開拓し成功しているマーゼルンなど、逆に事業を拡張している優良企業もあります。また最近では、大川商工会議所と地域の有力企業を核に、著名デザイナーや九州大学大学院などが参画する産学連携の「チームOKAWA」が、新ブランド「SAJICA(サジカ)」を開発するなど、新しい動きも生まれています。
「家具の町」から「インテリアシティ」へ、新しい価値の提供をコンセプトに、大川家具の新しい挑戦が始まっています。
2009年取材(写真/田中勝明 取材/鈴木秀晃)
▼福岡県大川市
福岡県南西部、県南部の主要都市・久留米市と大牟田市、及び佐賀市を結ぶトライアングルのほぼ中心に位置しています。筑後川が市の西部を流れ、有明海に注いでいます。また、市内を延べ300kmにもわたるクリークが縦横に走り、独特の景観を見せます。主要な産業は、「大川家具」「建具」などの木工業で、木工所、家具店、製材所などの木工業関連の建物が集積しています。
【交通アクセス】
佐賀空港から約15km、福岡空港からも約55kmの位置にあります。市内に鉄道駅はなく、最寄り駅は市中心部並びに南部では柳川市にある西鉄柳川駅。
福岡県大牟田市を起点とし、佐賀県鹿島市に至る有明海沿岸道路の大川東ICがあり、熊本市から佐賀市に至る国道208号が市の中心部を通っています。
写真説明
●若津港導流堤(通称・筑後川導流堤、デ・レーケ堤):1890(明治23)年、有明海の干満差で生じる土砂の堆積を防ぎ、航路を確保するため、筑後川中央部6.5kmにわたり築かれました。干潮時のみ全容を見せます
●筑後若津橋梁(通称・筑後川昇開橋):1935(昭和10)年に建設された全長506.4mの昇開式可動橋。現存する可動橋としては国内最古のもので、国の重要文化財、日本機械学会の機械遺産に指定されています。佐賀線廃線と共に本来の役割は終えましたが、現在も30分ごとに昇降し、橋が降りている間は歩道橋として対岸の佐賀県諸富町と行き来出来ます
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