再び畑を赤く染めるトウガラシの里 - 大田原
トウガラシが日本の食卓に至るまで
かつて日本では盛んにトウガラシが栽培されていました。最盛期の1963年頃には年間約7000トンも生産され、海外にも輸出されていました。そのピーク時を支えたのが、栃木県大田原市。当時、国内生産量の7割を占めるほどの一大産地でした。栃木県の北東部に位置するこの町が、なぜ日本有数のトウガラシ産地となったのでしょうか。これを解明するには、日本におけるトウガラシの歴史について、順を追って説明する必要があります。
トウガラシはアメリカ大陸中南部原産のナス科植物で、アメリカ大陸を発見したコロンブスによって、1493年に初めてヨーロッパに移植され、またたく間に世界中に広がりました。初期の頃は香辛料としてではなく、気管支炎などの痰切り、食欲増進といった薬効が重視されていました。大航海時代においても船乗りたちの薬として積み込まれ、これが交易先の国々に伝わるのです。
日本に入って来たのは安土桃山時代。「唐辛子」というネーミングから中国からの伝来をうかがわせますが、意外にもポルトガルの南蛮船によって持ち込まれました。船員たちにはかけがえのない食材でしたが、日本では当初薬として利用されたほか、足袋のつま先に入れる霜焼け止めとして用いられていました。
豊臣秀吉の軍が朝鮮に出兵した際も、凍傷予防用にトウガラシが装備されています。一説によると、この時初めて朝鮮半島にトウガラシが伝わったといいます。今では韓国料理にはなくてはならないアイテムですが、伝来のきっかけがかの地を攻めた秀吉軍だったとは意外です。
その後、トウガラシはそばやうどんの薬味・七味唐辛子として普及。無病息災、厄除けの土産として寺社に露店が立つようになり全国に広まっていきました。明治の世になり、脂っこい食べものが多く入って来るようになると、薬味としてだけではなく料理にもトウガラシが使われるようになります。そして昭和初期にカレーライスが爆発的にヒットしたことで、トウガラシは食材として確固たる地位を築くことになります。
一大産地、大田原の誕生
1923年の創業で、トウガラシやそれを使った製品の製造販売を手がける吉岡食品工業㈱の創設者、吉岡源四郎はいち早く人気のカレーライスに目を付けました。カレーに使われているスパイスはほとんどが外国産。在庫が不安定な上、値段の上がり下がりも激しい。そこで、ショウガ、ウコン、トウガラシに関しては出来る限り国産で賄おうという動きになっていきました。元がトウガラシ屋である源四郎にとっては願ってもない展開です。
収穫間近のトウガラシ畑 |
源四郎は東京・武蔵野にトウガラシ畑を持っていましたが、今後大量に消費されるであろうトウガラシを栽培するには手狭でした。そこで、栽培に適した土地を徹底的にリサーチした結果、栃木県の大田原に白羽の矢を立てました。今でこそ水田が開墾されていますが、かつては「手にすくう水もなし」と詠われた荒れ地で、1937年当時で畑作がやっとの土地です。源四郎はこの運命の地にトウガラシを持ち込み、東京のカレーメーカーとの契約栽培を始めました。カレーライスの人気もあって商売は順調でしたが、太平洋戦争開戦で契約栽培は中断を迫られました。食糧不足の戦時中に、お腹を満たせる作物ではなくトウガラシを作るのは気が引けましたが、「赤い宝石」に魅せられた源四郎は細々と栽培を続けました。
転機が訪れたのは、またもや戦争がきっかけでした。1950年の朝鮮戦争です。軍事食糧として米軍が日本のトウガラシを大量に買い上げるようになりました。いわゆる朝鮮特需の波にトウガラシも乗ったのです。作れば作っただけ買ってくれる上、当時、政府が喉から手が出るほど欲しがったドルが手に入りました。トウガラシはいわば外貨獲得のヒーローでした。それまで乾燥トウガラシの国内消費量は2000トン前後でしたが、朝鮮特需の時は大田原だけで5000トンを生産していました。こうして1955年以降、大田原は他の産地をしのぎ、トウガラシの一大産地として発展していきました。
トウガラシを使用した商品 |
「栃木三鷹」で町おこしを
大田原で栽培されたのは「栃木三鷹」という乾燥用の品種。吉岡源四郎が大田原で品種改良を重ね、完成させたトウガラシです。一般的に劇辛の部類に入ります。ハウスで育苗された栃木三鷹は、5月に畑に植えられます。最初真っ青だった身が9月に入ると一斉に赤く色づきます。10月末から11月にかけて霜の下りる直前が収穫の時期です。根ごと引き抜かれた茎を逆さにつるし、日陰で約2カ月間乾燥させた後、一つひとつ手でもぎっていきます。すべて手作業であるため、1軒の農家でせいぜい1反歩(300坪)から2反歩分を作るのが限度。ところが最盛期は1軒で平均5反歩、多いところで10反歩(1町歩)ものトウガラシを作っていました。自分たちで手が足りない分は、内職でもぎってくれる主婦が町に大勢いたのです。
「大田原のトウガラシ産業が華やかだったのは昭和30年から50年の20年間だけ。ドルが変動制になると価格も半減。トウガラシ栽培を敬遠する農家も出てきました」
と話すのは、源四郎の孫で現・吉岡食品工業社長の吉岡博美さん。中国産を始め価格の安い輸入品が市場を席巻すると、真っ赤なじゅうたんのようだったトウガラシ畑の風景は一気に消滅。しかも、あれだけもぎった主婦たちも家庭でトウガラシを食事に取り入れるようなことはありませんでした。一大産地であったにもかかわらず町にトウガラシの文化が全く根付いていなかったのです。
「トウガラシ料理一つ残らなかったことはずっと心残りでした。だから観光協会の方々から『大田原にトウガラシの名物を作りたい』『トウガラシを使った料理を根付かせたい』と相談を受けた時は本当にうれしかった」(吉岡社長)
2003年、観光資源の少ない大田原を何とかしてPRすべく、市観光協会は「食」をテーマとした新たな観光資源の開発を企画。歴史的観点から見ても大田原と関係の深いトウガラシに着目して商品開発を進めることになりました。吉岡社長や地元企業の協力もあり、トウガラシ入りのどら焼きやようかんなどを次々と開発。3年後には農家に栽培を呼び掛け、加工会社や飲食店なども加わり「大田原とうがらしの郷づくり推進協議会」が設立されました。3戸にまで減少していた栽培農家は、59戸まで増加。町には「とうがらしの郷大田原」ののぼりが翻り、新たな観光資源として定着しつつあります。
2012年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)
写真説明
●収穫間近のトウガラシ畑:逆さに実をつけるその姿はまる花のようです
●トウガラシを使用した商品:和菓子でも多くの関連商品が開発されています(撮影協力:和菓子処 木村屋)
●大田原の名物として定着しつつある、麺にトウガラシ粉末を練り込んだ「とうがらし支那そば」(撮影協力:荒喜家)
●那須与一も戦勝祈願に訪れたと言われる那須神社
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