三本の弦が放つのは津軽の風土が育んだ魂の響き - 五所川原

三味線の活気にあふれる津軽の春

桜前線の訪れに足並みをそろえるかのように、津軽では三味線熱がピークを迎えます。大型連休中、桜の名所でにぎわいを見せる花見客をよそに、県内3カ所で津軽三味線の大会が開催されます。中でも津軽三味線発祥の地である五所川原市金木地区の「津軽三味線全日本金木大会」は全国から演奏者が集まる大会で、これまで多くの有望な若手を輩出してきたことから、若手の登竜門として知られます。

津軽三味線は、その名の通り青森県の津軽地方で生まれた三味線音楽です。民謡の唄を引き立てる伴奏楽器であった三味線は、この地で次第に伴奏の枠からはみ出し、独奏でも聴く人の心を引きつける芸能として確立されていきました。バチを叩きつけるように弾く打楽器的な奏法が特徴的で、強いビートと迫力のある音は世代を超えて多くの人々を魅了しています。

演奏者の年齢層も幅広く、金木の大会にも老若男女が腕を試しにやって来ます。小学生以下、中高生、一般、60歳以上のシニアと年代別にそれぞれ個人戦と団体戦があります(シニアは個人のみ)。一般の部は更に習得年数5年未満のC級、5年以上のB級、習得年数を問わないA級に分かれます。純粋に三味線を楽しみたいという人たちの参加が多数を占める一方で、最高の実力を競い合うレベルの高い闘いも繰り広げられます。

4年前から、個人一般の部A級に限って1対1の勝ち抜きトーナメントが導入されました。自分が得意とする津軽民謡を1曲選んで披露するB、C級とは異なり、A級では対戦ごとに津軽五大民謡(じょんから・よされ・あいや・小原・三下がり)から1曲がくじで選ばれ、その曲を弾き合って勝敗を決めます。つまり、五大民謡全てを弾けないと勝ち進むことが出来ないのです。津軽民謡から逸脱する演奏は評価されず、基本的な民謡の旋律を守りつつ、いかにアドリブを加えて個性を出すかが勝負の分かれどころです。トーナメント制の導入後は、これまで以上に手に汗を握る曲弾き対決が生まれ、結果的に大会そのもののレベルが向上しました。

撮影協力:津軽三味線会館


中高生団体の部で過去に3連覇を成し遂げている五所川原第一高等学校を訪れました。金木の大会まで残すところ3週間とあって、放課後の校内には津軽三味線部の大きな音が鳴り響いていました。練習は既に仕上げの段階に入っており、主に演奏の早さや間をチェックしていました。なかなか堂に入っており、入部時にはほぼ全員が初心者だったというのが嘘のようです。市内で三味線部があるのはこちらの高校と、大会が行われる金木にある県立金木高等学校の2校。大会には、他にも全国からの参加があります。

五所川原第一高等学校の三味線部


津軽三味線

今に生きる、始祖の教え

三味線から派生して、津軽三味線のスタイルが確立されたのは明治の初期。仁太坊という人物が基礎を作り上げたと言われています。幼くして母を亡くし父に育てられた仁太坊は、8歳の時に失明。光を失った仁太坊はある時、津軽に流れ着いた瞽女と呼ばれる女性の盲人芸能者が奏でる三味線の音色に感銘を受け、彼女から三味線を習い始めることになりました。この時代、津軽地方で目が不自由な人々は、女はイタコ、男は門付けとして生きていくことが半ば運命付けられていました。門付けとは、家々の門前に立って三味線を弾いたり唄うなどの芸をし、その報酬としてお金や食料をもらって日々の糧を稼ぐ人のこと。11歳で父を亡くし天涯孤独となった仁太坊は、その後門付けで生計を立てていくことになります。

門付けは物ごい乞食と見られていましたが、仁太坊は「自分は乞食ではない」というプライドを持ち、芸人として生きました。そういう生き方に同じ目の見えない子どもたちが共感し、仁太坊の弟子となっていきます。必死に自分の真似をする弟子に対し仁太坊は「人真似ではない自分の三味線を弾け」と教えたといいます。もともとが盲人芸のため、楽譜は無く即興で弾くもの。弾き方も始めと終わりだけが決まっていますが、ほとんどがアドリブです。だから同じ曲であっても奏者によって内容が違うし、同じ奏者でも弾く度に変わってきます。こうした自由度の高さもあって、さまざまな個性を持った演奏者が出現しました。

門付けで生きて行く上で必要なのは人々の興味をひく大きな音を奏でること。今と違ってマイクやスピーカーがない時代、大きな音を出すために三味線そのものも改良されました。瞽女が用いていた中棹や細棹より強く大きな音が出せる太棹に代わり、胴には猫の皮ではなく、やはり大きな音が出せる犬皮が使われるようになりました。太鼓のように強く叩いて打ち鳴らす津軽三味線の代名詞「叩き奏法」には、犬皮はうってつけでした。

スコップ三味線歴30年以上の小山内さん

パフォーマンスは三味線以上?

昭和40年代の民謡ブームで津軽三味線は人々の知るところとなり、平成になって吉田兄弟が登場すると、その斬新なスタイルから伝統芸能というこれまでのイメージが払拭されました。こうした津軽三味線の本流とは別に、意外な方向へと進んだ流れもあります。
 
金属製のスコップを三味線に、栓抜きをバチに見立て、バックに流れる津軽三味線の演奏に合わせて、栓抜きでカチカチ音を鳴らしながら三味線弾きの真似をします。名付けて「スコップ三味線」。ギターを持っているふりをしてパフォーマンスをする「エアギター」の影響もあってか、このところメディアにも取り上げられるようになりましたが、その歴史は意外に古いのです。
 
1985年の忘年会シーズン、ある酔っぱらいが店の前に立てかけてあった雪かき用のスコップを持って店に入ると、この年大ヒットした青森県出身の歌手、岸千恵子の「千恵っ子よされ」に合わせて、スコップを三味線に、カウンターにあった栓抜きをバチに見たてて演奏の真似をし始めました。これがスコップ三味線誕生の瞬間です。この宴会芸はまたたく間に町を駆け巡り、誰もが一度はスコップ片手に「千恵っ子よされ」を歌ったといいます。


「スコップ三味線という名前が付けられたのは2006~07頃のこと。最近では発祥の地である五所川原で世界大会も開かれ、県内はもちろん、国内外から多くの参加があります。特に団体戦は、毎年予想をはるかに超えるパフォーマンスが披露され、大いに盛り上がります」
とは、スコップ三味線歴30年以上で、師範の肩書きを持つ小山内文明さん。これまで6000人以上の人々にスコップ三味線の指導を行い、その楽しさを伝えてきました。

毎年、12月上旬に行われる世界大会は、1000円の参加費を払えば誰でも参加出来ます。今年の忘年会は、スコップ片手に五所川原へ出掛け、団体戦で盛り上がってみるというのはいかがでしょう。

2012年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)

写真説明

●津軽三味線:早弾きが多いため、三味線の中でもバチは小さめ。胴掛けには津軽塗が施されています


●津軽半島北西部の日本海岸にある十三湖は、岩木川の水と日本海の海水が混じる汽水湖。五所川原市の十三湊は古くから港町として発展しました。また、十三湖は宍道湖、小川原湖と並び日本有数のシジミの産地として知られています。 金木の三味線大会に先立つこと約1カ月、4月10日には十三湖でヤマトシジミ漁が解禁され、夏場の産卵期を除き10月15日まで漁が行われます

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