ひたひたと草鞋の音が聞こえる気がする信州、木曽路、奈良井宿 - 塩尻

「奈良井千軒」とうたわれた木曽路最大の宿場町

木曽路。江戸と京都を結ぶ主要街道であった中山道のうち、長野県南西部の木曽谷を通る街道部分をこう呼びます。

信濃から美濃の間、約80kmに及ぶ街道に十一の宿場町が設けられました。中でも最も大きな規模を誇るのが、北から二番目の奈良井宿。木曽路最大の難所であった鳥居峠のふもとの宿場町とあって、ここを越える多くの旅人が宿を取り「奈良井千軒」とうたわれるほどのにぎわいを見せました。約1kmにわたる現在の家並みは1837年の大火後に建てられたものですが、近世宿場町の形態を良く残しており、訪れると江戸時代にタイムスリップした気分になります。

町は京都側から上町、中町、下町の三つに分かれ、上町と中町の境は「鍵の手」と呼ばれるクランクで、中町と下町の境は「横水」という沢で区切られました。前者は城下町などでも見られる防御を目的としたもの、後者は生活用水として利用されましたが、どちらも延焼を防ぐというもう一つの目的があったようです。過去に三度の大火に見舞われた町らしい備えです。

また、この町を象徴するのが、現在資料館として一般にも公開されている上町の旧中村邸です。かつて櫛問屋を営んだ商家の建物で、奈良井宿の典型的な町家造りを今に残しています。近世の民家建築として高い評価を受けていた旧中村邸ですが、老朽化していたこともあり、昭和40年代には県外へ移設保存する話が進んでいました。ところが、移設直前になって地元の人たちから「この建物は奈良井にあってこそ存在価値がある」という意見が出、移設の話は中止となりました。これを機に町並み保存運動が起き、最終的に1978年、奈良井宿は国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。

豊富な木材を背景に盛んになった漆器産業

江戸時代、木曽の山々は天領に定められていました。豊富な木材を保護するためです。特に木曽五木と呼ばれたヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ(クロベ)は木材資源として価値が高く、藩の許可なく伐採することは出来ませんでした。山林の管理は尾張藩が行っており、木曽谷の人々は雑木や柴の伐採をして森林の保全を担ってきました。その対価としてヒノキの白木御免木6000駄(1駄は馬1頭に負わせる荷物の量で、約135kg)が木曽谷の村々に下賜され、その3分の1以上が奈良井に割り当てられたといいます。割り当てが多かった理由は、木曽32村のうち、奈良井がいちばん耕地面積が少なかったからだと言われています。

木曽漆器


農業で生計を立てることが難しかった奈良井では、豊富な木材を背景に木工細工が盛んになりました。そのうち飛騨高山から出稼ぎに来た春慶塗の漆職人が移り住むようになり、上町では主に塗櫛、下町ではそばせいろなどの曲物が生産されて、地場産業へと成長しました。

めんぱ

下町には今も多くの曲物店が残っていて、軒先に「めんぱ」と書かれた看板を掲げた店をよく見掛けます。めんぱとは木曽ヒノキを曲げて作った弁当箱のことです。かつてこの辺りに住んでいた林業従事者が、お弁当にご飯をめいっぱい詰めたことにその名は由来します。薄くスライスしたヒノキをお湯で1時間ほど煮た後、伸ばしながら曲げて型に当てて固定。乾燥した後に糊付し、山桜の皮で留めて漆を塗り重ねて作ります。同様の製法で作られるもので、秋田県大館市の曲げわっぱが有名ですが、あちらの材料は秋田杉です。めんぱには木曽ヒノキの他、蓋板と底板に木曽サワラが使われます。おひつや寿司桶の材料に使われるサワラは吸水性と保湿性が優れる反面、煮ても木の繊維が伸びずに曲げられないため、2種類の木を使い分けました。木のことを知り尽くした木曽の知恵が詰まった逸品です。

漆器産業が大きくなると、奈良井だけでは手狭になり、奈良井から2km江戸寄りの平沢に新たな生産拠点が出来ました。漆器の下地材として活用出来る粘土「錆土」が取れたことから、明治初頭から産業としての基盤が確立。今日まで日本有数の漆器生産地としての地位を維持し続けています。奈良井とは違って江戸末期から昭和30年代の建物が混在した独特の景観を成しており、2006年に日本で初めて漆工町として重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。最近では町で共同作業場を設け、文化財の修復・復元事業も請け負っています。

トッピンシャンのお茶壺道中も骨を休めた宿泊地

奈良井宿

奈良井宿の上町と下町が職人町だったのに対し、中町には本陣、脇本陣、問屋などが置かれ、宿場の中心として機能しました。大火で焼失した本陣は復元されることがなかったため、貴人の宿泊には別の建物が使われました。中町の山側にたたずむ長泉寺もそんな宿舎の一つで、江戸の将軍家に献上する宇治茶を運ぶお茶壺道中でも利用されました。

お茶壺道中は正式名を宇治採茶使と言い、毎年八十八夜(5月初旬)の頃、史料では60人ほどの行列が空の茶壺と共に江戸を出発。宇治で茶詰めを終えると茶壺を厳重に封印し、長棒駕籠に納めて運びました。行きは東海道ですが、茶は潮風を嫌うため、帰りは中山道で運びました。

童謡「ずいずいずっころばし」の歌詞に出てくる「茶壺に追われてトッピンシャン」の茶壺は、お茶壺道中が通った時の描写です。将軍家御用という絶対的権威が与えられており、茶壺が通行する際には大名でも駕籠を降りなければならず、道中の村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑では耕作作業を中止しなければなりませんでした。実際は単にお茶を運ぶだけではなく、諸大名の不穏な動きを牽制する意味もあったと考えられています。

毎年6月の第1金、土、日曜日には木曽漆器祭が開催され、3日間で人口の10倍以上となる4万人が町を訪れます。木曽平沢を中心にあちらこちらで店が立ち並び、漆器職人自慢の品を買い求める人でにぎわいますが、最終日には奈良井宿でお茶壺道中が再現されます。さすがに江戸まで歩くことはありませんが、当時の格好をしたエキストラらが約2kmのコースを練り歩きます。

2012年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)

写真説明

●木曽漆器:人間の髪の毛を使った刷毛で漆を塗り、塗って研ぎ、塗っては研いで仕上げていきます(撮影協力:巣山元久さん)
●めんぱ:軽くて使いやすい天然素材の価値が今、再認識されています(撮影協力:はなのや)
●奈良井宿:江戸側の板橋宿から数えて34番目、京都側の守山宿からも34番目。中山道のちょうど真ん中の宿場町です


●板を4~5枚重ねて波形にそらせた「鎧庇」を、猿の頭を重ねたように見える桟木「猿頭」で押さえるのが奈良井の民家の特徴(旧中村邸)

●街道の山側には6カ所の水場がある。街道を歩く多くの旅人に利用されてきました

●塗り蔵は、温湿度管理に大変気を遣う漆器職人の仕事場。室内は20度に保たれ、季節に関係なく作業が出来ます

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