暮らしやすさ日本一。進取の気性に富む山陰の商都 - 米子
旧加茂川沿いの白壁土蔵群 大山山麓の町に根付く地蔵信仰 米子市は市内のどこからでも、中国地方の最高峰・大山を望むことが出来ます。米子から見る大山は、なだらかで富士山のような美しい姿を見せることから「伯耆富士」とも呼ばれますが、米子の人たちは親しみを込めて「大山さん」と呼びます。 大山は奈良時代の718(養老2)年に、山岳信仰の山として開かれました。伝説では、猟師が誤って地蔵菩薩を弓で射止めてしまい、その罪を悔いて出家し、地蔵菩薩を祭ったのが始まりとされます。そしてこれが、日本の地蔵信仰のルーツとも言われています。 それから1300年が経った2016年、大山山麓の米子・大山・伯耆・江府の1市3町が「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」の物語で、日本遺産に認定されました。 平安時代、山腹で牛馬の放牧を奨励していた大山寺は、地蔵菩薩は生きとし生けるもの全てを救う仏様だとして、牛馬安全を祈願する守り札を配りました。人々は牛馬を連れて大山寺にお参りし、時には参拝者同士で牛比べや馬比べを行いました。やがてそれが、牛馬の交換や売買、更には牛馬市へと発展。江戸時代には日本最大の牛馬市として隆盛を極めました。 また、大山寺に祭られる地蔵菩薩は、山頂の池から現れたとされ、水と地蔵菩薩が結びついた大山特有の信仰も生まれました。その信仰の広がりを現すのが、日本遺産構成文化財の一つ「旧加茂川の地蔵」です。 加茂川は、昔から大雨が降ると増水し、子どもたちが、しばしば水害の犠牲になりました。それを哀れんだ大坂の宮大工・彦祖伊兵衛が、江戸時代の安永年間(1773~81)に、川で命を落とした子どもたちの供養のために地蔵を造り、橋のたもとなど36カ所に奉納しました。彦祖は出雲の日御碕神社造営に携わった帰途、子どもが出来たため、米子に永住して大工頭を務めることになったといいます。 旧加茂川沿いには海運業で栄えた頃の蔵が点在します その後、大山の影響もあり、米子の地蔵信仰はますます盛んになり、現在では70体を超える地蔵群が、旧加茂川沿いを中心とした市街地に見られます。町の中心部にこれだけ多くの地蔵が集中している都市は全国的にも珍しく、米子は大きな災害や戦災がなく、400年前の町割りがほぼそのまま残るためと言われています。