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8月, 2020の投稿を表示しています

暮らしやすさ日本一。進取の気性に富む山陰の商都 - 米子

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旧加茂川沿いの白壁土蔵群 大山山麓の町に根付く地蔵信仰 米子市は市内のどこからでも、中国地方の最高峰・大山を望むことが出来ます。米子から見る大山は、なだらかで富士山のような美しい姿を見せることから「伯耆富士」とも呼ばれますが、米子の人たちは親しみを込めて「大山さん」と呼びます。 大山は奈良時代の718(養老2)年に、山岳信仰の山として開かれました。伝説では、猟師が誤って地蔵菩薩を弓で射止めてしまい、その罪を悔いて出家し、地蔵菩薩を祭ったのが始まりとされます。そしてこれが、日本の地蔵信仰のルーツとも言われています。 それから1300年が経った2016年、大山山麓の米子・大山・伯耆・江府の1市3町が「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」の物語で、日本遺産に認定されました。 平安時代、山腹で牛馬の放牧を奨励していた大山寺は、地蔵菩薩は生きとし生けるもの全てを救う仏様だとして、牛馬安全を祈願する守り札を配りました。人々は牛馬を連れて大山寺にお参りし、時には参拝者同士で牛比べや馬比べを行いました。やがてそれが、牛馬の交換や売買、更には牛馬市へと発展。江戸時代には日本最大の牛馬市として隆盛を極めました。 また、大山寺に祭られる地蔵菩薩は、山頂の池から現れたとされ、水と地蔵菩薩が結びついた大山特有の信仰も生まれました。その信仰の広がりを現すのが、日本遺産構成文化財の一つ「旧加茂川の地蔵」です。 加茂川は、昔から大雨が降ると増水し、子どもたちが、しばしば水害の犠牲になりました。それを哀れんだ大坂の宮大工・彦祖伊兵衛が、江戸時代の安永年間(1773~81)に、川で命を落とした子どもたちの供養のために地蔵を造り、橋のたもとなど36カ所に奉納しました。彦祖は出雲の日御碕神社造営に携わった帰途、子どもが出来たため、米子に永住して大工頭を務めることになったといいます。 旧加茂川沿いには海運業で栄えた頃の蔵が点在します その後、大山の影響もあり、米子の地蔵信仰はますます盛んになり、現在では70体を超える地蔵群が、旧加茂川沿いを中心とした市街地に見られます。町の中心部にこれだけ多くの地蔵が集中している都市は全国的にも珍しく、米子は大きな災害や戦災がなく、400年前の町割りがほぼそのまま残るためと言われています。

幕末から明治の面影を残す文化の里・宇和の今昔 - 宇和

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卯之町 宿場町の雰囲気を今に伝える卯之町の家並 宇和町は西予市の中央やや西寄り、肱川上流に広がる宇和盆地にあります。宇和盆地は古くからの穀倉地帯で、藩政期には宇和島藩の米蔵の役割を担っていました。また中心地の卯之町は、宇和島街道の宿場町として発展すると共に、四国八十八箇所霊場・明石寺の門前町としてもにぎわいました。 卯之町には江戸中期から昭和初期までに建てられた町家が残り、白壁、うだつ、出格子など、伝統的な美しい町並みが続きます。また、高野長英の隠れ家や二宮敬作住居跡などの文化財が数多く残り、西日本最古の開明学校や大正時代に建てられた卯之町キリスト教会などの洋風建築も点在するなど、歴史の流れを感じさせます。 司馬遼太郎の『街道をゆく』では、第14巻に卯之町が出てきます。その中で司馬は、同行した挿絵画家・須田剋太が「ここは大変な所です。京都だって奈良だってこんな一角がありますか」と、大興奮で語る場面を描いています。そして司馬は、奈良市の町家を思い浮かべながら、こんな町並みはここ以外に残っていないかもしれないと思った、と記しています。更に二人は、「たとえあったとしても、ここのように町全体が明るくはないだろう」との感想を述べ、それは白壁がふんだんに使われていることと、道路が広いせいではないか、と分析します。 確かに、卯之町の通りは普通の街道より幅が広くなっています。これは、大八車がすれ違えるようにしたものだそうで、往時は5軒あったという造り酒屋を始め、宇和盆地の米や宇和ヒノキを扱う商家の大八車が、町を行き交っていたことをほうふつさせます。 そんな卯之町を歩いていると、屋根の上にさまざまな飾り瓦が付いているのを目にします。通常は鬼瓦が置かれている所に、野菜や七福神、家紋、水の字などが載っています。 例えば、最近まで旅館だった家の玄関屋根にはえびす様と魚。で、この魚、えびす様だけにタイかと思いきや、これがコイ。しかも阿吽のコイときています。どうやら「商売繁盛、お客様来い来い」ということらしいのです。また、ダイコンとナスを組み合わせた飾り瓦もあり、地元の方の解説では、これはそれぞれ女性と男性の象徴で、その家が以前は遊郭だったことを示しているのだということです。 松屋旅館 また卯之町は電柱も電線も表に出

町民と行政が一体となって取り組む、街並みづくり100年運動 - 金山

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金山住宅 伝統的な真壁造りが特徴の美しい町並み 1878(明治11)年、日本を旅したイギリスの作家イザベラ・バードは、その紀行文『日本奥地紀行』の中で、金山町を「ロマンチックな雰囲気の場所」と評しました。それから140年が経った現在も、金山のロマンチックな雰囲気は変わっていません。 一歩町に入ると、まるで中世ドイツの木組みの町並みを思わせる美しい木造住宅が軒を連ねます。これらは金山住宅と呼ばれる、この地の伝統的な家屋。左の写真の建物は、バードが訪れた翌年に建てられた旅籠(旧やまに旅館)で、今は住宅になっていますが、往時の姿そのままです。 金山では、このような家があちこちに残ります。更に新築住宅も伝統工法で建てられているため、外観だけでは新旧が分からず、非常に統一感のある家並となっています。 金山町では、1984年から「街並み(景観)づくり100年運動」がスタート。86年には「金山町街並み景観条例」が制定され、町内の家を金山住宅に誘導することで、街並みの整備を進めてきました。 年に20戸ずつ、100年で町内全戸に広げることを目標にしていましたが、実際にはそれを上回るペースで進み、33年が経った現在、金山住宅建築の助成を受けたのはおよそ2000件に上っています。これは町の世帯数約1800戸を上回りますが、最初の頃に実施した家の修繕やメンテナンスも含まれているためです。この事業の発案者は当時の岸宏一町長で、以来、3代の町長が、継続的に取り組んでおり、町民のほとんどが事業を支持していることがうかがえます。 金山町は、林業と共に歩んできた町です。町域の約4分の3を森林が占め、周囲の山には杉の美林が広がります。このうち樹齢80年以上の木を「金山杉」と呼び、金山住宅にはその木材が使われます。 金山杉 豪雪地帯の金山では杉の生長が遅く、また雪の重みで樹齢10年ぐらいまでは根元から曲がっているものが多くなっています。が、除伐や間伐など、きちんと手入れをすることで、曲がりが分からないほど幹が太くなり、真っ直ぐ伸びた杉へと成長します。80年という歳月は、金山杉が金山住宅の建築材になるために必要な時間ということでしょう。こうして育てられた金山杉は、年輪の目が詰まっているのが特徴で、建築材として非常に美しいものになっていま

多くの文人に愛された湯けむりとみかんの香り漂う町 - 湯河原

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丘陵地での柑橘類栽培 都会の喧噪を離れのんびり出来る温泉街 湯河原は万葉集にも詠まれるほど、歴史ある温泉場です。しかし、明治、大正の頃までは、周辺の箱根、熱海に比べると知名度が極端に低く、観光で訪れる人も多くありませんでした。ただ、東京から近い上、静かな雰囲気と温暖な気候に恵まれていることから、夏目漱石や島崎藤村、芥川龍之介、国木田独歩など多くの文人たちが、静養のため足を運んでいました。 湯河原の地名は、河床から温泉が自然湧出していたことに由来しますが、その名の通り、静岡県熱海市との境界を成す千歳川と、その上流藤木川の岸に沿って温泉が湧き出ています。藤木川の更に上流には、1929年に掘られた広河原の奥湯河原温泉があり、高級旅館が建ち並んでいます。この二つの温泉は首都圏から電車でも行け、山と海に囲まれた豊かな自然の中、のんびり寛げる日帰り可能な温泉として人気を集めています。 古くからの温泉場である湯河原温泉の中心部には万葉公園があり、園内には万葉集に登場する草花が植えられています。万葉集の中で唯一、温泉について詠まれた湯河原を象徴する公園で、「日本の歴史公園100選」に認定されています。 この万葉公園の中に、日本最大級の足湯専門施設「独歩の湯」があります。湯河原を愛した国木田独歩にちなんで名付けられた足湯で、日本列島をイメージした円形施設の中に、効能が違う九つの足湯が設けられています。 また湯河原には文学者だけでなく、多くの芸術家も訪れていました。その一人、第1回文化勲章受章者の竹内栖鳳は、老舗の天野旅館に画室を設けて晩年の約10年を過ごしました。天野旅館は現在、町立湯河原美術館に生まれ変わり、湯河原ゆかりの画家の作品が展示されています。 また、日本画壇の第一線で活躍する平松礼二氏もこの地に愛着を持ち、湯河原美術館内に「湯河原十景」制作のための専用アトリエを設け、原則毎月第1・3土曜、日曜にはその様子を公開しています。 独歩の湯 湯河原美術館の庭園には、平松画伯がモネ財団から譲られた貴重な「モネの睡蓮」を育成する池もあり、季節には可憐な花を咲かせます。この庭園を望む館内1階には、湯河原温泉で豆腐店を営む湯河原十二庵によるカフェ「アンドガーデン(and garden)」がオープン。豆乳スープや秘伝豆の濃厚ソイラテなど、ヘルシ

伝統を継承しながら新しいものに挑戦する越中の工芸家たち - 立山

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越中瀬戸焼庄楽窯の釋永由紀夫さんの作品 立山連峰のふもとに築かれた焼き物の里 立山連峰のふもと、広大な扇状地の要に近い上末の集落は、「越中陶の里」と呼ばれています。 この辺りの土は粘土質で、奈良、平安時代には、それらの土を使って須恵器が焼かれていました。そのため上末の「末」は「須恵」のことだとされます。江戸時代には、加賀藩主・前田利長が、尾張の瀬戸焼陶工を招き焼き物作りを始めさせました。これは越中の瀬戸焼と呼ばれ、加賀藩の御用窯として発展。江戸中期には20を超える窯があったと言われます。 が、明治から大正にかけ、多くの窯が瓦の製造に転用されるようになり、上末は瓦の産地となりました。これにより、生活の器などは自分の家で使うものを作るだけになってしまいました。このままでは、越中瀬戸焼の伝統が途絶えてしまう。そう考えた数人の窯元が、昭和の初期になって、越中瀬戸焼の試作を始めるようになりました。 その一人、釋永庄次郎さんは、加賀の九谷焼窯元にいた吉野政次さんを招聘。登り窯を新たに築き、名前の一字を取って庄楽窯とし、昭和18年から本格的に作陶をするようになりました。その後、昭和32年に吉野さんが独立。香岳と名乗り、千寿窯を築きました。現在、それぞれ孫に当たる釋永由紀夫さん、吉野弘紀さん(3代目香岳)が、窯を継承しています。 釋永由紀夫さんは24歳で庄楽窯を継ぎました。その頃は、中国や朝鮮の陶磁に興味があり、韓国での活動を考えた時期もありました。が、実際に韓国で作陶してみると、思うような風合いや味わいが出ませんでした。そこで帰国後は、想い入れのある地元の土に徹底的にこだわろうと思ったといいます。 庄楽窯の特徴である白土 釋永さんが、主に使っているのは白土と呼ばれるもので、鉄分が少ない上に粒子が細かく、高温でも焼成出来る性質を持っています。また磁器に使う陶石に比べ、作陶をする上で扱いやすい利点もあります。しかも焼成時の温度が1250度ぐらいでは陶器、1300度を超えると磁器のような味わいが醸し出されます。 庄楽窯は祖父庄次郎さんが築いた登り窯をベースに、14年前、由紀夫さんが50歳の時に再構築しました。この時に使用したレンガは28歳の時からこつこつと焼きためていたもので、韓国の窯に使われてい