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光を引き込み、風を通す空間を演出する日本建築の技 - 吹田・摂津

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商都大阪で華咲いた伝統工芸 通風と採光を良くすると共に、部屋の品格を保つため鴨居と天井の間に取り付けられる欄間。日本家屋に欄間が用いられるようになったのは、日本の建築様式が寝殿造から書院造へと移っていく安土桃山時代以降のことです。もともとは奈良時代の寺社建築に用いられた採光目的の簡素なものでしたが、後に木材が使われ、彫刻などの装飾が施されるようになりました。代表的なものが京都の西本願寺や二条城に見られる豪華で壮大な彫刻欄間。華美な欄間は権力者が権威を示すためによく使われましたが、当時欄間を使うことが出来たのはこのような特権階級の人々に限られていました。それゆえ寺社仏閣が集中する京都は、自然と欄間生産の中心地となっていきました。 一般庶民の茶の間や客間に欄間が登場するのは、江戸時代中期以降のことです。経済の中心が京都から大阪に移り、大阪商人が力をつけていくに従って、特権階級のものであった欄間が広く商家などに普及。それに伴い、中心産地も京都から大阪へと移っていきました。大阪は木材の集散地でしたし、堺を中心に豪商が多く、需要も高かったことが生産拠点が移った理由だと考えられています。大阪市内にある四天王寺の元三大師堂や和泉市の聖神社では、今も発祥の頃の大阪欄間の姿を見ることが出来ます。 その後、大阪市内を始め岸和田市や吹田市、貝塚市、摂津市といった大阪府下の都市に欄間生産の拠点は広がり、1975年には「大阪欄間」の名で、府内で初となる国の伝統的工芸品の指定を受けています。また、長年にわたって磨き蓄積されてきた高度な彫刻欄間の技術が評価され、85年には大阪府知事が指定する伝統工芸品「大阪欄間彫刻」にも認定されています。 多様なデザインが生まれた理由 吹田市にあった大阪欄間工芸協同組合が2012年3月に摂津市に移ったこともあって、現在、大阪欄間のメーンの生産地は摂津市になります。大阪平野の北部、淀川の豊かな自然に育まれ、大阪と京都を結ぶ水陸交通の要所として重要な役割を担ってきた町です。市内には、屋久杉やヒノキ、キリなど家屋の内装や家具などに使う高品質な建築材・銘木を扱う卸売問屋が集まる銘木団地という名の問屋街があります。すがすがしい木の香りが漂うその一画で、職人の手によって大阪欄間は製作されています。 透彫欄間 一口に大阪欄間と言っても、長い伝統に支えられたいろいろな技法があり

活気に満ちた岸壁を紅一色に染め上げる深海の美味 - 境港

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水揚げ量日本一、境港の赤い華 寒さが増す晩秋から冬にかけて、日本屈指の漁獲量を誇る境港は日に日に活気が増していきます。主役は山陰を代表する味覚のカニ。 11月初旬には「カニの王様」の呼び声が高い松葉ガニ漁が解禁となるのです。この時期、待ちに待ったとばかりに上品で繊細な松葉ガニの味を求めて境港を訪れる人が後を絶ちません。最近ではインターネットでも簡単に購入出来るようになり、ブランドガニとしてその名は一気に全国に広まりました。 そんな松葉ガニの陰に隠れて知名度はさほど高くはありませんが、境港にはもう一つ誇るべきカニがいます。ベニズワイガニ、通称ベニガニです。 その名の通り、表も裏も鮮やかな紅色をしたカニです。日本海全域と東北地方の太平洋岸から犬吠埼(千葉県)の沖合にかけて分布する日本固有種で、国内の67%が境港で水揚げされ、その量は日本一です。多くは棒肉やフレークなど加工用として流通し、ちらし寿司やカニグラタン、カニクリームコロッケなどの原料に利用されます。 ベニガニの見た目が、ゆでて赤く色づいた松葉ガニとそっくりなのは、近縁種であるため。とは言っても生きている松葉ガニの甲羅は茶褐色で、裏側は生でもゆでても白いことから、見た目の区別は容易です。ちなみに福井の越前ガニ、京都の間人ガニ、そして松葉ガニは名前こそ違いますが、実はみな同じズワイガニです。 棲息する場所は松葉ガニとベニガニでは全く異なります。松葉ガニが暖流と寒流が交わる隠岐島周辺の水深200~400mの海域に棲息するのに対し、ベニガニは800~1200mの深海、主な漁場は領有権をめぐって緊張状態が続く竹島周辺や、日本海のほぼ中央です。いちばん遠い漁場は港から36時間もかかります。 江戸時代から漁が行われていた松葉ガニと違い、ベニガニ漁の歴史は浅く、ほんの最近のこと。乱獲で減少の著しい松葉ガニに代わる資源として漁獲されるようになってからまだ40年ほどしか経っていません。松葉ガニを取っていたこの辺の漁師は、更に深い所に違う種類のカニがいることは知っていましたが、長らく漁法が分かりませんでした。同じ日本海に面し、眼前に日本三大深湾の一つに数えられる湾を抱える富山では、ベニガニの漁法が早くに確立されており、ここの漁師を呼び寄せたことから境港のベニガニ漁が始まったと言われています。 カニかごを作る工場 資源保護に配慮した漁

三本の弦が放つのは津軽の風土が育んだ魂の響き - 五所川原

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三味線の活気にあふれる津軽の春 桜前線の訪れに足並みをそろえるかのように、津軽では三味線熱がピークを迎えます。大型連休中、桜の名所でにぎわいを見せる花見客をよそに、県内3カ所で津軽三味線の大会が開催されます。中でも津軽三味線発祥の地である五所川原市金木地区の「津軽三味線全日本金木大会」は全国から演奏者が集まる大会で、これまで多くの有望な若手を輩出してきたことから、若手の登竜門として知られます。 津軽三味線は、その名の通り青森県の津軽地方で生まれた三味線音楽です。民謡の唄を引き立てる伴奏楽器であった三味線は、この地で次第に伴奏の枠からはみ出し、独奏でも聴く人の心を引きつける芸能として確立されていきました。バチを叩きつけるように弾く打楽器的な奏法が特徴的で、強いビートと迫力のある音は世代を超えて多くの人々を魅了しています。 演奏者の年齢層も幅広く、金木の大会にも老若男女が腕を試しにやって来ます。小学生以下、中高生、一般、60歳以上のシニアと年代別にそれぞれ個人戦と団体戦があります(シニアは個人のみ)。一般の部は更に習得年数5年未満のC級、5年以上のB級、習得年数を問わないA級に分かれます。純粋に三味線を楽しみたいという人たちの参加が多数を占める一方で、最高の実力を競い合うレベルの高い闘いも繰り広げられます。 4年前から、個人一般の部A級に限って1対1の勝ち抜きトーナメントが導入されました。自分が得意とする津軽民謡を1曲選んで披露するB、C級とは異なり、A級では対戦ごとに津軽五大民謡(じょんから・よされ・あいや・小原・三下がり)から1曲がくじで選ばれ、その曲を弾き合って勝敗を決めます。つまり、五大民謡全てを弾けないと勝ち進むことが出来ないのです。津軽民謡から逸脱する演奏は評価されず、基本的な民謡の旋律を守りつつ、いかにアドリブを加えて個性を出すかが勝負の分かれどころです。トーナメント制の導入後は、これまで以上に手に汗を握る曲弾き対決が生まれ、結果的に大会そのもののレベルが向上しました。 撮影協力:津軽三味線会館 中高生団体の部で過去に3連覇を成し遂げている五所川原第一高等学校を訪れました。金木の大会まで残すところ3週間とあって、放課後の校内には津軽三味線部の大きな音が鳴り響いていました。練習は既に仕上げの段階に入っており、主に演奏の早さや間をチェックしていました。なかなか

ひたひたと草鞋の音が聞こえる気がする信州、木曽路、奈良井宿 - 塩尻

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「奈良井千軒」とうたわれた木曽路最大の宿場町 木曽路。江戸と京都を結ぶ主要街道であった中山道のうち、長野県南西部の木曽谷を通る街道部分をこう呼びます。 信濃から美濃の間、約80kmに及ぶ街道に十一の宿場町が設けられました。中でも最も大きな規模を誇るのが、北から二番目の奈良井宿。木曽路最大の難所であった鳥居峠のふもとの宿場町とあって、ここを越える多くの旅人が宿を取り「奈良井千軒」とうたわれるほどのにぎわいを見せました。約1kmにわたる現在の家並みは1837年の大火後に建てられたものですが、近世宿場町の形態を良く残しており、訪れると江戸時代にタイムスリップした気分になります。 町は京都側から上町、中町、下町の三つに分かれ、上町と中町の境は「鍵の手」と呼ばれるクランクで、中町と下町の境は「横水」という沢で区切られました。前者は城下町などでも見られる防御を目的としたもの、後者は生活用水として利用されましたが、どちらも延焼を防ぐというもう一つの目的があったようです。過去に三度の大火に見舞われた町らしい備えです。 また、この町を象徴するのが、現在資料館として一般にも公開されている上町の旧中村邸です。かつて櫛問屋を営んだ商家の建物で、奈良井宿の典型的な町家造りを今に残しています。近世の民家建築として高い評価を受けていた旧中村邸ですが、老朽化していたこともあり、昭和40年代には県外へ移設保存する話が進んでいました。ところが、移設直前になって地元の人たちから「この建物は奈良井にあってこそ存在価値がある」という意見が出、移設の話は中止となりました。これを機に町並み保存運動が起き、最終的に1978年、奈良井宿は国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。 豊富な木材を背景に盛んになった漆器産業 江戸時代、木曽の山々は天領に定められていました。豊富な木材を保護するためです。特に木曽五木と呼ばれたヒノキ、サワラ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ(クロベ)は木材資源として価値が高く、藩の許可なく伐採することは出来ませんでした。山林の管理は尾張藩が行っており、木曽谷の人々は雑木や柴の伐採をして森林の保全を担ってきました。その対価としてヒノキの白木御免木6000駄(1駄は馬1頭に負わせる荷物の量で、約135kg)が木曽谷の村々に下賜され、その3分の1以上が奈良井に割り当てられたといいます。割り当

絶滅の危機から蘇り、やんばるの自然で育つ琉球在来種 - 名護

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のびのび健康に育てられている黒琉豚アグー 絶滅の危機に瀕した在来種 沖縄県の在来豚をアグーと言います。粗い毛に覆われた黒い小型の豚で、眉間には八の字にシワが寄り、白目は黄金色。四肢はがっしりとして太く、背中は凹形に湾曲し、腹部は地面まで届きそうなほど垂れています。まるでハイヒールを履いているような姿から「貴婦人」に例えられる白豚のランドレース種などに比べると、多少不格好に見えます。それでも一部の沖縄の人にはこの黒い在来豚がどうにも愛らしく、しかもうまそうに映るらしいです。 アグーの原種は1385年頃、航海の食材として船で飼育されていた豚で、中国から当時の琉球に持ち込まれたと伝えられています。一説には、黒糖の生産で知られる粟国島を経由して入って来たため、島の名から「アグー」と名付けられたとも言われます。 琉球王朝では宮廷料理のメーンディッシュが豚肉で、これが次第に庶民にも広がり、年中行事や慶事のごちそうとなりました。以来、沖縄ではソーキ(骨付きあばら)やミミガー(耳)、テビチ(足)、チラガー(顔の皮)で知られるように、豚は「鳴き声以外」すべて食べ尽くされる食材になっています。当時は一家で2~3頭、多くて5~6頭を飼い、家庭で出た残飯やサツマイモとそのつるを、丁寧に火を通してから与えるなど大切に育て、愛情をもって肉にしました。 1950年代までは沖縄にいた豚の約8割がアグーで、どこの農家でも見ることが出来ました。ところがこの後、ショッキングな事実が発覚します。 1981年、名護博物館が沖縄県内の在来家畜の展示飼育を手掛けることになり、調査を行ったところ、宮古馬や与那国馬、琉球犬といった沖縄特有の在来家畜が全般的に減っていることが分かったのです。特に在来豚アグーは壊滅的で、県内に残っていたのはわずか30頭でした。戦争を機に数が激減したこともありますが、品種改良によって生まれた生産効率の良い白豚が沖縄に入って来て、養豚農家が好んで白豚を飼育し始めたこともあります。その結果、いつの間にかアグーは県内の豚舎から姿を消していたのです。 北部農林高校の家畜農場 この状況に危機感を覚えた名護博物館は種の保存を図ろうと県内をくまなく回り、残ったアグーをかき集めました。かろうじて残っていたアグーは、養豚農家が趣味で飼っていたものや、家族で食べるために飼育していたものでした。飼い主に事情を

金沢の食文化を支える個性豊かな加賀野菜 - 金沢

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消滅の危機から誕生した加賀野菜 かつては全国至る所に、地域の食文化や気候風土に根ざし、古くから親しまれてきた個性的な野菜がありました。しかし、日本経済が高度経済成長の波に乗り出すと、人口が都市部に集中。その需要を満たすために大量生産向きの野菜が作られるようになりました。品種改良の技術が進んだこともあり、こうした野菜の多くは病気に強く栽培しやすい、形が均一で運搬に適した交配種が主流となりました。不ぞろいであることが多く、病気にも弱かった在来野菜は次第に、品種改良種に取って代わられました。 城下町金沢にも、藩政時代から受け継がれる伝統野菜がありましたが、絶滅の危機に瀕していました。金沢で150年続く種苗店の5代目当主である松下良さんはある時、馴染みの料理店でも地元の野菜が使われていないことに気付きました。 「地元の野菜は先人が残してくれた文化遺産。このままでは金沢独自の文化が消滅してしまう」 危機感を募らせた松下さんは1989年、店で大切に保管していた約30種の伝統野菜の種を持ち出し、周囲の生産者らに栽培してもらおうと協力を求めました。こうして91年に加賀野菜保存懇話会が立ち上がり、松下さんが会長を務めることになりました。97年には行政が加わって金沢市農産物ブランド協会を設置。昭和20年以前から栽培され、現在も主として金沢で栽培されている15品目(さつまいも、加賀れんこん、たけのこ、加賀太きゅうり、金時草、加賀つるまめ、ヘタ紫なす、源助だいこん、せり、打木赤皮甘栗かぼちゃ、金沢一本太ねぎ、二塚からしな、赤ずいき、くわい、金沢春菊)が伝統ブランド野菜「加賀野菜」に認定されました。同協会が中心となって生産振興や消費拡大に努めた結果、全ての品目で著しい増加があったわけではありませんが、生産量は微増もしくは横ばいで維持されています。もし「加賀野菜」ブランドに認定されていなければ、消えていた野菜は間違いなくあっただろうというのが同協会の見解です。 金沢は地産地消の先進都市 加賀太きゅうり 近年、先駆けである京野菜や加賀野菜に倣って、伝統ブランド野菜が各地で誕生しています。ところが多くの場合は、既にその土地でその野菜を食べる文化は消えかかっており、食べ方もほとんど知られていません。しかも高価であるため一部料理店が仕入れる以外、一般の人は見向きもしないという声を耳にします。加賀野菜も

心穏やかな時間を過ごす宿坊体験と身延参り - 身延

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宿坊は旅館と何が違うのか 江戸時代、庶民の間で善光寺参りや大山参りといった寺社参詣が大流行しました。稲の刈り取りも終わった農閑期、大切に積み立ててきたお金を手にしてお参りに出かけた人々の多くは、ひと月もふた月も旅先に滞在しました。そんな彼らが宿として利用したのが宿坊です。 「旅の目的地であった寺院には通常、幾つもの末寺が存在します。身延山にも多い時で百近くの末寺があり、本寺である久遠寺を支えていました。こうした末寺が、遠くから来た信者の宿代わりに使われたことから宿坊の歴史は始まります。身延にも宿坊を足掛かりに、何日にもわたって久遠寺をお参りする方が今も大勢いらっしゃいます」 日蓮宗の総本山、身延山久遠寺の末寺の一つである行学院覚林房の樋口是亮住職は、宿坊の成り立ちについてこのように説明します。本来は修行中の僧侶が宿泊する施設でしたが、時代が下るにつれ一般の参詣者や観光客も利用出来るようになりました。現在、身延には32軒の宿坊があり、そのうちの16軒が参拝客や観光客を受け入れています。最近では部屋やトイレ、空調などが快適に整備され、サービス内容が旅館然としている宿坊が多く、反対にゆば料理や精進料理が自慢の町の旅館もあるなど、宿坊と旅館の違いはほとんど見当たりません。 しかし、昭和の初め頃までの身延はお寺自体がご飯を食べられるか食べられないかという貧しい懐事情でした。だから泊まる方も2合の米を奉納して泊めてもらっていました。 「ここ10年で身延の宿坊はゆばを使った料理を打ち出していますが、以前はどこの宿坊の料理も一汁一菜に近いものでした。町の旅館はこれにせいぜいお刺身が一品加わる程度の質素なものだったと聞いています」(樋口住職) 今は快適なこともあって物見遊山でやって来る人がほとんどで、昔のようにストイックに信仰心から訪れる人はごくわずかです。ただ、瞑想や写経に興味を持つ外国人の来訪は増えており、ホームページに英語版を用意している宿坊もあります。また宗派もこだわりなく、観光で訪れて、住職との何気ない会話をきっかけに悩み事を打ち明け始める宿泊者もいます。本人は幸せそうに見えてもお子さんが引きこもりやいじめで困っているなど、人は何かしら悩みを抱えているもの。宿泊先で自然に悩みを打ち明けられるのも、宿坊ならではの体験と言えるかもしれません。 ロープウェーから望む身延の門前町

水に恵まれ、金銀糸で華やぐ五里五里の里 - 城陽

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地下水と西陣の恩恵で発展した地場産業 京都を代表する伝統工芸の一つ西陣織や、京都祇園祭の山鉾を飾る緞帳がキラキラと輝いているのは、ラメ糸とも呼ばれる金銀糸が使われているためです。この金銀糸の製造で、国内生産量の約8割を占めるのが城陽市を中心とする南山城地域です。 もともとは職人の手で和紙に金箔や銀箔を張り、細長く切ったものを綿や絹の芯糸に巻き付けて作るものでしたが、1960年頃から化学繊維による機械化生産が主流になりました。現在作られているのは、ポリエステルフィルムに銀、もしくはアルミニウムを特殊な技術で付着させ、色彩豊かに着色したものです。機械化で大量生産が可能になったことで、和洋を問わず衣料や装身具、インテリアや生活雑貨の素材などとしてさまざまな分野、用途で金銀糸が使われるようになりました。面白い所では自動車のシートや、商品券等のホログラムの素材として利用されています。 一方で、高級品には現在も和紙に金箔を押して作る伝統的な本金糸がしばしば使われます。本金糸の製作現場を見せてもらうと、和紙に漆を染み込ませ、完全に乾く前に丁寧に拭き取る作業が行われていました。和紙に箔押しする際、漆は接着剤の役割を果たします。漆の乾燥には適度な湿度が必要なのですが、城陽は宇治川と木津川の合流地点で水が豊富であるため、生産に適しています。また、市域の地下には琵琶湖の水量に匹敵するほどの地下水が溜め込まれていると言われ、昔から飲み水以外にもさまざまな用途に活用されてきました。 話は少しそれますが、市内の城陽酒造では1895年創業以来、この地下水を汲み上げて酒造りをしています。南東の青谷エリアは砂利質で、雨が地面に染み込む際に、この砂利が天然のろ過器となって良い軟水を作るのだといいます。また、青谷には20haの梅林が広がり、2~3月にかけ約1万本の白梅が咲き誇り、辺り一面、大きな白布を広げたように白一色となります。 ともあれ、掘ればすぐに水が出るため、箔押しにはうってつけの場所でした。明治の終わりから大正時代にかけて、箔押しや糸撚りの職人らがこの地に集ったことで、地域で一貫して金銀糸を生産出来るようになり城陽は金銀糸の町になりました。また、城陽は京都から五里(約20km)、奈良からも五里の距離だったことから「五里五里の里」と呼ばれます。金銀糸の大消費地である京都の西陣にも比較的近かったた