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暗闇で静かに身を伸ばす東京育ち、美白の野菜 - 立川

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美白がウリの東京野菜 春を告げる食材として知られるウドですが、全国有数の産地が東京であることをご存じでしょうか。副都心新宿からJR中央線の特別快速で23分。駅周辺にはビルが建ち並び、近未来都市の様相を呈する多摩地域の中心都市・立川市こそが、東京産ウドのメッカなのです。 ところでこのウドには、身の丈が短い緑色をしたものと、ひょろ長くて白い2種類があります。前者は野山に群生する山ウドで、古くは奈良時代から山菜として食されてきました。一方、後者は柔らかく食べられるよう軟化栽培されたもので、立川のウドはこちらのタイプです。シャキシャキとした歯ざわりと香りの高さ、そしてなんと言ってもその際立つ白さが最大の特徴です。白さの秘密は独特な栽培方法にあります。生産者の荻田武男さんが栽培している場所を見せてくれるというので早速訪ねてみました。 案内されたのは、荻田さん宅の裏庭でした。ウドらしきものは見当たらず、代わりに地面の所々にカーペットが敷かれていて、その真ん中から煙突が突き出ているのが目に入りました。荻田さんがそのうちの一つのカーペットをめくると、地面にぽっかりと口を開けた穴が出現しました。実は立川のウドは「ムロ」と呼ばれる地中で栽培されます。ウドにはいくつか軟化の方法がありますが、ムロの中で日光に当てずに育てるやり方は立川ならでは。普段は雨水が入らないよう、ムロにはカーペットなど何重かのフタを被せており、換気のために煙突が取り付けられています。それにしても、こんな場所でウドが育てられているとは驚きです。 懐中電灯を手に、深さ4mほどの縦穴を梯子で降りると、地底には高さ1mに満たない洞窟のような小部屋が四方に広がっていました。奥行きは4mほどあるという小部屋にはそれぞれ真っ白なウドがびっしりと群生していました。 「ウドはとてもデリケートな野菜。少しでも光が入るのはもちろんのこと、ムロの中の空気が動くだけで緑色に変色します。立川のウドは白さが命。色がついては商品価値が下がりますから、生産者の私たちもめったにムロの中には入りません」 と荻田さんは話します。 白さを保つこと以外にも、地下栽培のメリットがあります。ムロの中は1年を通して湿度70~80%、気温は20度前後と実に安定しています。そのため、他の作物の生産量がグッと落ち込む冬場でも収穫出来るウドは、生産者にとって魅力的な農作物な

白河に春を告げ、人々に福を呼ぶ縁起物 - 白河

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だるま市は、春の風物詩 毎年2月11日の建国記念日、白河では春の訪れを告げる伝統の「白河だるま市」が開かれます。市内の目抜き通りには約700軒の露店が軒を連ね、店先ではだるま売りの威勢のよい掛け声が響きます。福を求めて県内外から15万人が訪れ、だるまの表情をじっくりと見比べながら買い求めていきます。 江戸時代中期、寛政の改革で知られる白河藩主の松平定信が、旧正月の市に縁起物として売らせたのがだるま市の起源と言われます。 白河だるまの正式名称は「白河鶴亀松竹梅だるま」。意匠は定信のお抱え絵師であった谷文晁が考案したと伝えられ、眉は鶴、ひげは亀、顔の両側に松と梅、顎ひげに竹をあしらい、全体的に福々しいのが特徴です。 厄除けと家内安全の利益がある赤だるまと、開運の利益がある白だるまの2種類が作られます。サイズは21段階あり、小さいものから買い始めて年々大きなものを買い足していくため、白河ではだるまがいくつも飾ってあるお宅は珍しくありません。 現在、白河市内には2軒の製作所があり、それぞれ顔の模様が微妙に異なるだるまを作っています。だるま市に向け、仕上げの作業が佳境を迎えた1月の末、そのうちの1軒、佐川だるま製造所を訪ねました。 紙からすべて手作りで だるま市の準備でさぞ忙しいのだろうと推測していましたが、仕事場でだるまの顔を描いていた店主の佐川明子さんから意外な答えが返ってきました。 「確かに年末年始に仕上げと出荷で忙しくはなりますが、今だけが忙しいというわけでもないんです。結婚式の引き出物や選挙、近隣の市町で行われるお祭りで売るだるまの注文が入るので年中同じようなペースで作っていますね。それに、他にもやるべき作業が山ほどありますから」 だるまの顔を描く仕上げ作業ばかりが注目されますが、だるまに使う紙を自ら漉き、底に取り付ける陶器製の重りも粘土をこねて自分たちで焼きます。だるま製作の下準備とも言えるこうした作業もこなすため、工房には楮の束が積まれ、それを煮る大きな容器や陶器を焼く電熱釜がそろっています。 他の産地では木型で作ることが多いのですが、白河では土の焼き型を使います。海藻を煮て作った糊で、楮で作った丈夫な和紙を型に張り付けていきます。紙を幾重にも張り合わせた後、顔を描く部分に古紙を張ります。この古紙は、田畑の広さや収穫量などを記した台帳や名寄せ帳(昔の教科書)とい

華やかな大航海時代の面影と、キリスト教受難の歴史を持つ港町 - 平戸

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かくれキリシタン信仰の誕生 東シナ海から玄界灘に抜ける海上交通の要衝だったことから、古来、大陸との交易港として栄え、戦国時代には南蛮貿易の拠点となった港町平戸。この町を語る上で欠かすことが出来ないのが、キリスト教の伝来と弾圧の歴史です。平戸にキリスト教(カトリック)が伝来したのは1550年のこと。西欧の船として初めてポルトガル船が平戸に入港したのがきっかけです。この知らせは、前年に鹿児島に上陸していたイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの元にも届きます。思うように進まない鹿児島での布教を急きょ取りやめ、すぐに平戸に入ったザビエルは領主の松浦隆信に丁重に迎えられ、領内での布教を認められました。ザビエルが布教を許されたのは、ポルトガル国王の庇護下にあったイエズス会が布教の交換条件として、利益の多いポルトガル船との南蛮貿易の仲介役を申し出たためです。これ以後、平戸港には定期的にポルトガル船が寄港し始め、領内では宣教師による布教が盛んに行われました。 ところが、急速に増えていく信者を目の当たりにした隆信は、領主の力が及ばなくなることを恐れ、これまで布教に寛容だった態度を一変させます。豊臣秀吉が発した伴天連追放令(1587年)以降、キリシタン(キリスト教徒のこと)への禁教政策が強まっていたこともあり、平戸でも厳しい弾圧が行われました。宣教師や信者は捕らえられ、国外に追放されるか処刑されました。迫害を恐れ、キリスト教を捨て仏教徒になる者もいましたが、中には表向きは神仏を祀りながら密かにキリシタンの信仰を守る潜伏信者も生まれました。しかし、宣教師はことごとく国外に追放されてしまったため、キリスト教の教義は時間がたつにつれ希薄になっていきました。その一方で、地元で殉教した者たちに対する崇敬の念が潜伏信者らの精神的なよりどころとなっていきました。こうしてこの地に伝わったカトリックは、独特の信仰形態「かくれキリシタン信仰」へと変容していくのです。 かくれキリシタンの島 1873年に明治政府がキリシタン禁制の高札を撤廃すると、約250年ぶりにヨーロッパから神父が来日し、カトリックの布教を始めました。各地の潜伏信者らは、カトリックへ改宗することを求める神父の言葉から、自分たちの信仰が再布教されたカトリックとかなり違っていることを知って戸惑います。しかし、カトリックへの改宗はすなわち、先

あのつゆ、あのだしの深みを支えるのは黒潮の恵みが生んだ飴色の宝石 - 土佐清水

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全国一を誇る宗田節の産地 南方から暖かい海水を運んでくる黒潮が日本で最初にぶつかるのが高知県南西部、太平洋に突き出すように伸びる足摺岬です。周辺海域は魚介類の宝庫で、岬からほど近い土佐清水は県内有数の水揚げを誇る港町として知られます。漁師が1本の竿と自らの腕だけでカツオやマグロを釣り上げる豪快な一本釣り漁業が昔から盛んです。最近では脂の乗りのいいゴマサバを「土佐の清水サバ」として売り出し、人気を博しています。もう一つ土佐清水で忘れてはならないのが、全国生産量の8割を占めている宗田節です。 宗田節とは、地元ではメジカと呼ばれるカツオの仲間のマルソウダを原料とした節のことです。カツオ節に比べ濃厚で力強いだしが取れるのが特徴で、料亭や割烹を始め、日本全国のうどん・そば店でだしやつゆを作るのに欠かせない食材となっています。メジカは鮮度が落ちやすいだけではなく、血合いが多く生食には向きませんが、宗田節になると独特の味と香りを生み出す最高の一品に生まれ変わります。 漁が行われるのは足摺岬の沖合。水温20度を超える黒潮の本流に沿うように水温19度前後の流れがあり、そこにメジカは生息します。夜明け前の午前3時、沖に向けて出航した漁師は漁場に着くと伝統の曳き縄漁に取りかかります。円を描くように船を旋回させながら撒き餌をまき、船から張り出された4~5本の竿に疑似餌を付け一尾ずつメジカを釣り上げていきます。 漁のあったその日の昼から夕方にかけて市内の各港で水揚げが行われます。冷却された状態で加工業者に落札されたメジカはすぐに宗田節製造工場である節納屋へと運ばれ、翌朝までに沸騰した釜の中に入ります。メジカを間近で見てみると、なるほど名前の由来「目近」が示す通り、目と口の距離が近く、どこか幼い面構えです。カツオに比べると一回りから二回り小ぶりな魚です。漁期に合わせてそれぞれ呼び名があり、1~3月末の寒い時期に水揚げされたものを「寒メジカ」、5月末~7月初めの「梅雨メジカ」、9~10月中旬は小型で笹の葉に似ていることから「笹メジカ」、11月~12月中旬にとれるものを「秋メジカ」と呼びます。中でも寒メジカで作る宗田節は、大きさ・品質ともに最上級とされています。 大釜での煮熟 釜で煮られ、煙で燻される 宗田節の加工業を営む中平健さんの節納屋をのぞいてみると、市場から運ばれてきた新鮮なメジカを鉄製の

名水湧き出る奥越の山間に、城下町の面影を残す小京都 - 大野

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古い町割が残る、北陸の小京都 福井県東部、岐阜県との境にある大野市は、白山連峰に囲まれた大野盆地に開けた町です。市街地はかつての城下町の面影を残し、北陸の小京都として知られます。町を見下ろす標高250mの亀山に城を築いたのは、織田信長の武将であった金森長近。後に飛騨高山や上有知(現在の美濃市)を築いた都市計画に優れた才を持つ人物です。越前一向一揆の鎮圧で功を挙げた長近は、1575年に大野郡の3分の2(3万5000石)を拝領すると、すぐに城の建設に取りかかり、同時に亀山の東側で城下町の建設も開始しました。城のそばには武家屋敷を置き、京の街を模し、東西南北に6本ずつ通りを交差させ、碁盤の目というよりは1つの区画が縦に長い短冊状になるような町割りを行いました。東の端を南北に貫く寺町通りにはその名の通り、中世から近世にかけて建てられた九つの宗派の16の寺院が集められ、通りの両脇に軒を連ねています。町の外郭に意図的に配置された寺院は、防御壁の役割も担っていたといいます。 一方、町の中央部を東西に走る七間通りは、越前から美濃へ抜ける美濃街道にあたり、城下町の中心街として発展しました。創業150年以上の老舗が並ぶこの通りには、春分の日から大晦日の間、毎朝7時から市が立ちます。金森長近の時代から続く朝市で、近郊の農家が丹精込めて育てた野菜や取れたての山菜が並びます。市民の台所として毎朝開かれており、この日はナスにジャガイモ、ネギの苗といった野菜や山菜、切り花などが売られていました。たまに物珍しそうに売り物をのぞく観光客が混じりますが、客の多くは市民。それぞれに馴染みの店があって、二言三言会話を交わしながら買い物を楽しんでいました。 こんこんと湧き出す「清水」の町 扇状地の上に造られた大野の地下には、水を通さない岩盤が横たわっており、その上に周囲の山々が吸い込んだ水が地下をゆっくりと移動し溜まっていきます。そのため地下水位が上がると、町の随所で湧水が地表にあふれ出ます。湧水は清水と呼ばれ、長く町を潤してきました。 本願清水 金森長近もこれに目を付け、特に水量が豊富だった本願清水を整備し、生活用水として利用すべく水を市街地に引き入れました。この水は南北を貫く5本の通りの真ん中に設けられた水路を走り、町の人々に生活・防火用水として利用されました。今も寺町通りの脇に水路の名残がありますが、

日本家屋の象徴、畳表のふるさとを行く - 八代

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織り師の岡初義さん。自身が育てたい草と共に 生産量と作付面積は日本一 熊本県南部の八代市は、県下第2の人口を有する田園工業都市です。日本三大急流の一つである球磨川が注ぎ込む八代海(不知火海)に面する八代平野の北部に市街地が広がっています。平野の半分以上は江戸時代から近代にかけて干拓によって造成された土地で、全国でも有数の高い生産性を誇る農業地帯です。米やトマトの他、畳表の原料となる、い草の産地として知られます。 熊本県のい草栽培の歴史は500年も前にさかのぼります。1505年、八代郡千丁町の城主が、水辺などに群生していた、い草を農作物として栽培したのが始まりです。江戸時代になると、細川藩の貴重な特産物として栽培が奨励されるようになりました。その後、八代平野一帯は生産量と作付面積で共に全国の約9割を占める一大産地に成長しました。 今更説明するまでもありませんが、わらを圧縮した下地のわら床を、い草で織られた畳表で覆ったものが畳です。和室の床に用いられるこの伝統的な床材は、世界に例を見ない、日本で独自に発達してきたものです。鎌倉時代までは板床に敷くクッションのような使われ方であったようですが、室町時代になり書院造の建物が登場すると、部屋全体に畳を敷くスタイルが確立され、茶道の拡大に伴って普及しました。とはいえ畳は当時から高価なもので、普及したとは言っても寺社を始め公家や侍の家屋でのことです。日本の一般家屋の床は依然板張りで、い草を織ったゴザやムシロが使われました。畳が広く一般家庭にまで普及するのは第2次大戦後のことです。 畳が市民権を得たのは、やはり日本の気候・風土に適したものだったからだと推測されます。畳表は、梅雨などの高湿度期には水分を吸収し、冬の乾燥期には水分を放出することで湿度調節の役割を果たし、居住空間を快適に保ちます。この機能の秘密は、い草の内部にあります。い草の内部にはスポンジ状の組織があり、そこに含まれた水分が空気の状態によって放出や吸湿を繰り返します。まさに天然の除・加湿器です。また、よく見ると断面のスポンジ組織は六角形のハニカム構造になっているため、弾力性に富みながらも強度に優れ、床材に最適な素材であることが分かります。天然素材として優れた特性を持つい草は畳に加工される以外にも、スポンジ部分に油を染み込ませ、和ろうそくやあんどんなどの芯として使われてい

鳴門の潮が育んだ王様と呼ばれたサツマイモ - 鳴門

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甘さの秘密はミネラル豊富な海砂 蒸したてを二つに割ると、鮮やかな紅色の表皮に映える黄金色の中身が現れました。見た目の美しさは期待を裏切らず、栗のようにホクホクとした食感の後に際立つ甘さが舌の上を走ります。鳴門金時は、サツマイモのメジャー品種である高系14号の改良種に付けられたブランド名で、吉野川及び旧吉野川の河口域に広がる特定の地域で栽培されたものだけが名乗ることが出来ます。その甘みの強さから「サツマイモの王様」とも形容され、質の高さでその名は全国区です。 吉野川の河口域は、もともと稲作が行われていた地域です。平野部には一面水田が広がっていましたが、海岸沿いは塩害がひどく、海水にまみれた砂地が大半を占め、実際には米はおろか野菜作りにも適さない土地でした。そこで白羽の矢が立ったのが、塩害にも強いサツマイモです。サツマイモ栽培に適している土壌は、普通の野菜とは違い水はけの良い場所になります。砂地は願ってもない好条件でした。また、鳴門市周辺は1年を通して温暖で降水量が少なく気候も生産に適していました。こうして昭和40年代初め頃から、稲作からサツマイモ栽培に転じる農家がポツポツと現れ始めました。鳴門市大津町の林勝さんもその一人です。サツマイモ栽培の第一歩は土壌改良です。水をため込んでしまう水田に大量の砂を入れ、水はけの良い畑に作り替えました。 「粒子が細かすぎる川砂ではどうしても水が詰まってしまうので、畑に入れたのは近くの海で採取した粗めの砂。ただ、入れたての砂には随分塩分が含まれていたので、最初の頃は良い形のイモが出来ず苦労しました。雨が塩気を流してくれるまでに2~3年はかかりました」(林さん) 砂地畑からほどよく塩分が抜けると、鮮やかな皮色と美しい紡錘形をしたサツマイモが出来るようになりました。また、海砂にはもう一つ別の効果もありました。海水のミネラル分を豊富に含んだ砂地畑で育てた結果、糖度が格段に上がったのです。同じ苗を別の土地で栽培しても、この色、形状、糖度は出ないというから不思議です。 寝かせるほどにうまくなる 鳴門金時の栽培準備が始まるのは、まだ花冷えのする4月の初めです。砂地畑に高い畝を作り、それを黒いビニールで覆った後、等間隔で穴を空け、温室で育てられていた苗を手作業で植え込んでいきます。この時、畝に対して苗を斜めに植え込むと、均一で食べやすい大きさの芋が鈴