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鬼怒川水運隆盛の名残をとどめる河港町 - 常総

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坂野家住宅の表門(薬医門) 水運の中継地として発展 常総市は、2006年に常総平野(関東平野の一部)の中心地であった旧水海道市が、隣接する旧石下町を編入合併して誕生しました。常総市としての歴史は浅いものの、歴史好きの興味を引く史跡を数多く残すエリアです。石下は坂東武士発祥の地で、平将門生誕の地とも言われています。また、坂上田村麻呂がこの地で馬に水を飲ませたことに由来する「水飼戸(みつかへと)」が、水海道という地名の起源だといいます。いずれにせよ、平安時代には既に鬼怒川両岸に定着して稲作を行う集落が存在しました。 市の東端には、今も鬼怒川に並行して小貝川が流れていますが、もともとこの2本の川は市街の南側で合流していました。そのため、雨が降ろうものなら河川はすぐに氾濫し、人が定住出来るような場所ではありませんでした。江戸時代の初め、氾濫防止と水田耕地拡大のために河川改修工事が行われ、2本の河川は分離。鬼怒川は利根川に注ぐよう付け替えられ、町は大いに隆盛します。水路が整備されると、下総(千葉県北部)や下野(栃木県)、更には会津方面の物資が多く集まるようになり、この地から江戸への水運が盛んになったのです。いつしか河岸には、豪商や有力問屋が軒を連ね、 「鬼怒川の水は尽きるとも、その富は尽くることなし」と、たたえられるまでになりますた。 有力な問屋の一つである五木田家は、代々宗右衛門を名乗り「五木宗」と称していました。醤油の醸造販売の傍ら廻漕業も営み、会津藩の廻米を商うなど水海道河岸の中心的な役割を担っていました。往時の繁栄ぶりを今に伝えているのが、豊水橋のすぐそばにある五木宗レンガ蔵です。醤油を醸造していた頃の明治時代後期に建てられた建物で、レンガ蔵では珍しい3階建てがひときわ目を引きます。何でも、建物に使われているレンガも五木宗で製造されたそうで、一時は商品として江戸方面へ出荷されていました。市内を散策している際にも、幾つかレンガ造りの建物を見かけたが、これらも恐らく五木宗で作られたものだといいます。 豊水橋 目の前の鬼怒川には、河岸がにぎわっていた頃の面影はありませんが、国道354号線が交わる豊水橋のたもとには、明治時代に木製だった頃の豊水橋の痕跡や、大正時代の橋脚基部がわずかに残されています。 アクセス抜群、ロケの町 東京都心から50km圏内、鉄道や高速道路などを利用す

アイヌ文化が根付く、食材の王国 - 白老

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  コタンのある北海道の縮図の町 白老町の人はよく、自らの町をPRするのに「北海道の縮図のような町」と説明するのだそうです。北海道らしい魅力が随所に見られるということらしいです。 目の前には太平洋が広がり、振り返ると手つかずの原生林と、その奥には雪を頂く山々が連なります。町の西にある倶多楽湖は国内トップクラスの水質と認定されたカルデラ湖で、そこを水源とする豊富な伏流水が町を潤します。また道内屈指の湯量と泉質を誇る温泉地でもあります。もちろん山海の幸も豊富で、夏は涼しく冬の積雪も少ない穏やかな気候といいます。1856年に仙台藩が北方警備のため入植して、最初に陣屋を建設する場所に白老を選んだのも、それよりずっと以前からアイヌがこの地にコタンと呼ばれる集落を築いていたのも、住み良い環境だったからに違いありません。 アイヌは、北海道や東北地方、樺太南部、千島列島に及ぶ広い範囲に古くから暮らしていた先住民族で、現在も北海道に約2万4000人が暮らしています。中でも白老は古くからアイヌ文化の伝承地として知られてきました。市街地には「チセ」と呼ばれる伝統的なアイヌの茅葺き家屋の集まるコタンが戦後しばらくまであり、ここで行われるアイヌの舞踊や楽器演奏、民話を目当てに全国から訪れる観光客でにぎわっていました。 昭和40年代にはこうした観光機能が市街地から少し離れたポロト湖畔に移ります。ここにはチセの家並みが復元され、アイヌの人々に関する資料を集めた町立資料館が設置されました。その後、アイヌ文化の調査研究や伝承保存、普及を目的とした野外博物館を増設。現在はアイヌ民族博物館「しらおいポロトコタン」として整備され、年間20万人の来場者がある北海道を代表する観光地の一つになっています。 園内に足を踏み入れると、アイヌ衣装をまとった職員さん数人から「イランカラプテ」と声を掛けられました。「ようこそ」や「こんにちは」と同じ感覚で使われるあいさつだといいます。今年から北海道の一部で、このイランカラプテを通じてアイヌ文化の理解を促す取り組みが始まっており、新千歳空港(千歳市)やさっぽろ雪まつり(札幌市)の会場でもこの言葉を見掛けるようになりました。近い将来、沖縄の「めんそーれ」のように北海道のおもてなしの合言葉になることが期待されています。 イヨマンテリムセ アイヌ文化を伝え残していくために イラン

足柄山の山奥、金太郎のふるさとを訪れる - 南足柄

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夕日の滝 足柄山の金太郎伝説 神奈川県の西部を流れる酒匂川の上流、矢倉沢地区の内川に、落差23m幅5mという立派な滝があります。夕日に映える美しさから、そして毎年1月半ばに滝口に夕日が沈むことから「夕日の滝」と呼ばれています。新緑、紅葉、雪景色と季節を問わず美しい景色を見せる滝で、すぐそばにキャンプ場があることから夏になると水遊びの家族連れでにぎわいます。昔から滝行の修験者らが多く訪れ、この日も試合を間近に控えたキックボクサーが滝に打たれに来ていました。格闘家と夕日の滝、一見全く関係が無さそうな組み合わせだが意外にそうでもありません。夕日の滝は、金太郎が産湯をつかった滝であると伝えられているのです。金太郎といえば、熊と相撲を取るほどの怪力自慢の少年。キックボクサーはその力強さにあやかりに来たのでしょうか。聞くと、元横綱の朝青龍も現役時代にここを訪れたそうです。 夕日の滝の他にも、界隈には金太郎が幼少の頃に動物と遊んだという石など関連の名所がいくつかあります。金太郎にまつわる伝説は全国22カ所にありますが、南足柄にはなんと金太郎の生家跡があります。この家は、平安時代中頃に京都からやって来てこの地に住み着いた四万長者と呼ばれた人物の家で、八重桐姫という娘がいました。娘は隣の開成町の坂田家へ嫁ぎますが、すぐに夫が亡くなったため実家に戻り金太郎を生みました。これが南足柄に伝わる金太郎の生誕ストーリーです。他にも摩訶不思議な金太郎伝説があるので紹介します。 「山で休憩していた八重桐姫が、うとうと眠ってしまった。すると夢に雷神が出てきて、その後に懐妊していることが分かった」。これが、金太郎は雷神の子であるという雷神伝説。雷神の真っ赤な身体にちなんで、金太郎の衣装は赤になったといいますが、トレードマークのマサカリも雷神が持つ武具だというのが興味深いところです。もう一つは山姥伝説。「年を取った八重桐姫は近隣の子どもをさらっては食べていた……。姫の振る舞いを憂えたお地蔵さんが、息子の金太郎を隠してしまうと、八重桐姫は狂わんばかりに嘆き悲しんだ。後に金太郎を返されると八重桐姫は改心した」。八重桐姫がなんと山姥であったという話です。金太郎の母が山姥だという話は、南足柄以外の地にも伝えられているようです。 大人になった金太郎は、坂田金時と名を変えて、妖怪退治で有名な平安中期の英雄源頼

手筒花火が轟く、三州吉田をそぞろ歩く - 豊橋

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手筒花火 夜空を彩る炎の祭典 火柱が噴き上がり、火の粉が雨のように降り注ぎます。やがて爆裂音と共に火が大きく爆ぜると、一面に火薬の臭いと白煙が立ち込め、見物人からは歓声が沸き起こりました。 豊橋市の吉田神社では毎年7月第3金土日曜日の3日間で豊橋祇園祭が行われます。その幕開けを告げるのが、吉田神社が発祥と言われる手筒花火の奉納です。東三河地域と静岡県の一部にだけ伝わる手筒花火は、縄を巻いた竹筒に火薬を詰め込み人が抱えて上げる花火。 江戸時代、徳川家康の編成した鉄砲隊が火薬の取り扱いを故郷の弟子たちに伝授したことから、古来、三河では花火が盛んでした。もともとは戦国時代の狼煙がルーツだといいますが、江戸時代に黒色火薬が使われ始めると、煙だけでなく鑑賞に耐え得る現在のような花火が作られるようになりました。 手筒花火は地上に寝かせて点火し、安全を確認してから抱え上げます。火の勢いは徐々に強くなり、火柱の高さは10mにもなりますが、男衆は降り注ぐ火の粉を全身に浴びながら仁王立ちでじっと同じ姿勢のまま耐え続けます。その昔、男性は手筒花火を経験して初めて成人と見なされました。危険を恐れず手筒花火を抱える行為は、勇気の証であり男の美学でもあったのです。 手筒花火最大の魅力は花火のクライマックスに轟く「ハネ」です。着火から40~50秒後、爆裂音と共に手筒の底が抜けるハネを迎えて花火は終了となります。手筒を抱える人にすれば「緊張からの解放感と、成し遂げた達成感の両方を味わえる最高の瞬間」なのだといいます。 身体を張って打ち上げる手筒花火は、竹の切り出しから火薬詰めまでを全て自分たちで行うというのも、この地域に代々伝承されてきた文化です。8カ町の氏子それぞれに秘伝の製造方法があるそうですが、基本は同じ。火薬の取り扱いは法律で規制されているため、花火を作る氏子は毎年講習を受けることが義務づけられています。火薬を詰めるのは祭りの前日。火薬と共に混ぜる鉄粉の大小で、噴き上げる火柱の勢いや音を変えることが出来ます。 手筒花火 祭の当日、午後6時からの宵祭の後、大筒花火などと共に、今年は315本の手筒花火が奉納され、勢いよく上がる火柱が夏の夜空を赤く彩りました。 全国一のウズラ王国 手筒花火が盛んな東三河地

新しくて、どこか懐かしい港町 - 北九州

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旧門司税関 「不夜城」と化した港町 本州と九州とを隔てる関門海峡は、最も狭い部分で可航幅がたったの500m。潮流の流速も最速時で9ノット(毎秒4.6m)を超えるため、昔から航海の難所でした。それでも、瀬戸内海と日本海という二つの海を結ぶ海峡とあって、現在も1日約600隻もの船舶が往来する海上交通の要衝です。 この関門海峡に面した北九州市が「九州の玄関口」になり得たのは、港湾と鉄道という二大インフラをいち早く整備したからです。背後に筑豊炭田を控えていたことで、1889年に門司港が石炭などを扱う特別輸出港に指定されると、その2年後には門司港を起点とする九州鉄道(国鉄の前身)が開通。炭鉱と港の間を石炭列車が往来し、門司港は貿易港としての地位を確立しました。岸壁には隙間がないほど船があふれ、外国船がひっきりなしに港を出入りしました。 港の将来性に目を付けた金融資本の進出も相次ぎました。大商社や銀行が先を争って門司に支店を出し、門司港の目抜き通りにはこうした商社や銀行の洋風建築社屋が軒を連ねました。1898年には九州で初めてとなる日本銀行の支店も門司に出店しています。鉄道の走る海岸沿いには工業地帯が出来、門司は産業都市に発展。街は活気にあふれ、さながら不夜城の様相を呈していたといいます。 ところが、終戦と共に海外貿易が縮小し、エネルギー源の主体も石炭から石油へ。更には、1958年の関門国道トンネルの開通で、海運と鉄道に頼っていた物流がトラック輸送に取って代わり、港の需要が低迷していきました。 かつてのにぎわいは失われたものの、華やかなりし頃をしのばせる、れんが造りの古い建物はその場に残りました。近年、北九州市では、門司港エリアに点在するこうした歴史的建造物を、新しい都市機能と組み合わせる街作りを進めてきました。1995年から「門司港レトロ」として新たな歴史を刻み始めた港町エリアは、往時の面影の残る都市型観光地として年間200万人が訪れる人気スポットとなっています。 門司発祥の伝統芸 「門司港レトロ」の中でもシンボルとも言える存在が、JR門司港駅です。1914年に建設されたネオ・ルネッサンス様式の洋風木造建築物で、鉄道の駅舎としては初めて国の重要文化財に指定されました。あの東京駅の駅舎よりも10カ月早く完成してい

頬を抜ける風が心地よい、山深き奥飛騨・神岡へ - 飛騨

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レールマウンテンバイク・ガッタンゴー 廃線の線路をこぎ進む 線路を走るのは電車でもトロッコでもなく、自転車でした。もう少し正確に説明すると、廃線となった線路の幅に合わせた鉄製の特製フレームに2台のマウンテンバイクを固定し、自転車をこぐことでレール上を疾走することが出来るという乗り物です。周囲を山に囲まれた飛騨の大自然を、心地よい風を受けながらペダルをこぐ新感覚のこのアクティビティは、レールの継ぎ目を通過する時のガタンゴトンという体感音から「レールマウンテンバイク・ガッタンゴー」と名付けられました。 飛騨市神岡町は、鉱山と共に発展してきた町です。奈良時代に黄金を産出して天皇に献じたという言い伝えがありますが、1874年に三井組が近代的な鉱山経営を始めた頃から、鉱山町としてめざましい発展を遂げました。総採掘量は約130年間で7500万トンに達し、亜鉛、鉛、銀鉱山として一時は東洋一と称されました。ところが、円高不況やさまざまな国内外の要因から、2001年に鉱石の採掘を中止。精製した亜鉛や鉛を運搬するために作られ、鉱山と共に1世紀近くの歴史を刻んできた第三セクター神岡鉄道神岡線も06年11月末に廃止されました。廃線にはなったものの線路だけはなんとか残したいと、有志が発案したのがレールマウンテンバイクです。 有志の一人が、サイパン旅行で体験したアクティビティがヒントになりました。サイパンのジャングルには今も旧日本軍が敷設した軌道が残っており、そこをマウンテンバイクで走るツアーがあります。軌道の大部分は土に覆われていますが、ちょうどレール部分がくぼみの底となる状態で整備されており、レールの上をマウンテンバイクで走ることが出来ました。 この体験が非常に爽快で、神岡の廃線にも応用出来ないかということからプロジェクトはスタート。何度か試行錯誤を繰り返し、一般の人が乗っても安全な現在の仕組みを作り上げました。 レールマウンテンバイク・ガッタンゴー 神岡鉄道が廃線となった4日後、既に試作が完了していたレールマウンテンバイクに搭乗し、当時の市長や地元ライオンズクラブのメンバーを含めた約10人が始発駅である奥飛騨温泉口駅から終点の富山県富山市の猪谷駅までの全線19.9kmを往復。自らこいで線路を進む感覚と、トンネルと鉄橋が連続する景