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水の流れる音が聞こえる奥美濃の城下町 - 郡上

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郡上八幡を代表する冬の風物詩「鯉のぼり寒ざらし」 水の町・郡上八幡の水利用方を学ぶ 郡上八幡は水の町です。 町中を歩くと、いつでもどこでも水の流れる音が聞こえてきます。 町には、奥美濃の山々を源とする大小の川が流れ込み、最も大きな吉田川は、町の西側で清流・長良川に合流します。碁盤の目の町並みには用水路が張り巡らされ、そこを勢いよく水が流れています。 用水路は、江戸時代の大火をきっかけに整備されました。吉田川の北に広がる北町は1652(承応元)年の大火でほぼ全焼。寛文年間(1660年頃)に城下の整備を進めた藩主・遠藤常友は、4年の歳月をかけ、防火を目的に、町割りに沿って用水路を築造しました。この水は御用用水と呼ばれ、城下の下御殿や家老屋敷にも水を供給していました。 北町は1919(大正8)年にも大火に遭い、再び全焼。江戸時代の町割りが細分化され、袖壁が微妙にずれながら連続する独特の景観が生まれました。この時に用水路も現在の形に付け替えられ、各戸の軒下には、防火用のブリキのバケツが吊るされるようになりました。 郡上八幡には、こうした用水路があちこちを流れ、全部で六つの系統があります。取水源も川から引き込むものと、山の湧き水、地下の井戸水と、用水ごとに異なっています。 御用用水と平行して流れる柳町用水は、吉田川の支流の一つ初音川の系統で、他の用水路への分水点が1カ所ありますが、ほぼ独立した用水となっています。300年の歴史を持つ柳町用水は、旧武家地の歴史的町並みを残す地区を流れ、簡易カワド(洗い場)を作るための堰板を設置出来る家も多く見られます。堰板は文字通り、水をせき止めるためのもので、家の前の用水路にはめ込んで水位を上げ、そこで洗い物などをします。 郡上八幡・尾崎町の水舟 また小駄良川の西岸、旧越前街道沿いにある尾崎町では、背後の山から湧き出る6カ所の水舟や井戸が「組」と呼ばれる昔ながらの共同体によって維持されています。水舟とは2~3層に分かれた水槽で、尾崎町では山の湧き水をまず飲み水として使い、次に野菜や食器洗いにと、上手に使い分けていいます。我々は毎日、炊事、洗濯、風呂、トイレと、大量の水を使い、そのまま流していますが、郡上の水利用を少しは見習いたいものです。 郡上の清流

沖縄の自然や文化に根差す「サンゴの島」の人々 - うるま

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高江洲製塩所の 流下式塩田 沖縄の光と風で作る浜比嘉島の天然塩 うるま市の勝連半島と平安座島は全長4.75kmの海中道路で結ばれています。「海中」の名の通り、まるで海の中を走っているような錯覚を起こします。道路が低い上、道の両側に海が広がっているからです。この海中道路で平安座島へ渡り、二手に分かれた道を右折すると、浜比嘉大橋に入り、隣の浜比嘉島まですんなり行けます。 浜比嘉島は周囲約6.7kmで、500人ほどの島民が暮らしています。島の南には、琉球の開闢神話に登場するアマミチュー(男神)とシルミチュー(女神)という二人の神様が住んでいたと伝わる洞窟があり、霊場として島民に守られています。そのシルミチュー霊場の少し先に、昔ながらの流下式塩田で塩作りをしている高江洲製塩所があります。 流下式塩田は、ゆるい傾斜をつけた流下盤の上に海水を流し、太陽光で水分を蒸発させ、更に竹の枝を組んだ枝条架の上から滴下させて風で水分を飛ばし塩分濃度を高めます。昭和20年代後半から40年代中頃まで主流だった製塩法ですが、電気の力を利用して海水中の塩分を集める製塩法が開発されると、切り替えが進み、塩田は姿を消しました。が、塩の専売制が廃止されて以降、さまざまな方法で塩づくりが行われるようになり、味が良く、塩辛さの中にほのかな甘味や苦味を感じさせる、塩田による塩が再び脚光を浴びることになりました。 高江洲製塩所は、工房の前にある海岸から直接、澄んだ海水を満潮時にくみ上げています。それを竹の枝と木材で組んだ装置の上から流し、落ちた水を流下盤で循環させます。それを何度も繰り返すことで海水の塩分濃度を上げ、約4%の海水が15%になるまで濃縮します。高江洲製塩所の流下式装置は1時間で循環するようになっており、濃縮まで冬は1日、湿度の高い夏は2~3日を要します。 高江洲製塩所の「浜比嘉塩」(右)と島限定「大粒塩」 濃縮された海水(かん水)は、工房内の釜に移動させてじっくり炊き上げ、塩を結晶化させます。その後、2日間かけてにがりを抜き、更にそれを自然乾燥させてやっと商品となります。 こうして浜比嘉島の光と風で作られた高江洲製塩所の塩は、ミネラルバランスが整い、コクと旨みが詰まった粗塩として人気を博しています。 うるま市

三河の里山・鞍掛山のふもとに広がる日本の原風景、四谷の千枚田 - 新城

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四谷の千枚田 人々が営々と築いてきた圧巻の風景 その風景は、130人ほどの人が暮らす山間の集落、四谷地区にあります。 「四谷の千枚田」と名付けられた棚田は、鞍掛山(883m)の山頂に向かって、標高230m付近から430m付近まで広がります。高低差は実に200m、日本三大石積みの棚田で、約420枚の田んぼが連なります。 約700年前には、既に稲作が行われていたと言われており、棚田も非常に古い歴史を持っています。1904(明治37)年には梅雨の長雨と雨台風で鞍掛山の隣の山(通称貧乏山)が崩れ、沢沿いの家屋が流失、死者11人という大惨事が起こりました。この時、棚田も沢沿いでほぼ壊滅状態となりました。が、村人たちは諦めることなく、くわとモッコで棚田復興に全力を注ぎ、わずか5年ほどで石積みの棚田を蘇らせました。この絶景は、そうした長い歴史と先人たちの汗と苦労で積み上げられたものです。 棚田はかつて、日本のあちこちで見られました。が、70年頃から国の減反政策の対象として耕作放棄され始め、今では4割の棚田が消えたと言われます。ここ四谷の千枚田も70年代初めには1296枚の田んぼがありましたが、20年後の平成元年には3割以下の373枚まで減少してしまいました。 そんな現実を見て、先祖が残してくれた遺産を何とかして次代につなげたい、と一人の男性が立ち上がりました。当時、愛知県水産試験場で養殖魚の技師をしていた小山舜二さんです。 小山さんは50歳の誕生日を機に、千枚田の保存活動を仕掛けることにしました。手始めに千枚田の写真を撮り、全国の写真展に出展しては日本の原風景である「棚田」をアピールしました。次に作業性、生産性の悪い棚田を整備するため保存会の立ち上げを企画。が、耕作者の関心は薄く、繰り返し繰り返し粘り強く説得を重ねた末、97年、ついに念願の「鞍掛山麓千枚田保存会」を発足させました。 鞍掛山のふもとに広がる石積み棚田は、訪れる人の心を捉える これによって「ふるさと・水と土ふれあい事業」に選ばれ、軽トラックが通れる作業道が完成。農作業が驚くほど楽になりました。更に都市との交流を目的に、「ふれあい広場」や「ぼっとり小屋」「水車小屋」などの施設が整備されると、街から大勢の人が訪れるようになりました。その後も

不易流行。500年の歴史に新たな一歩を記す「嬉野茶寮」- 嬉野

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嬉野茶寮 歴史ある嬉野三大ブランドのコラボが実現 2017年5月27、28日の両日、嬉野の温泉街を望む山腹の茶園で、「嬉野茶寮」による新茶会が催されました。これは嬉野温泉旅館、肥前吉田焼窯元、若手茶農家を中心とした「嬉野茶時プロジェクト」の一つ。 嬉野茶は500年以上の歴史を持ち、全国にその名を知られています。が、日本茶全体に占めるシェアは知名度の割には高くありません。また、近年は高齢化や後継者不足により廃業する茶農家もあり、茶畑の面積は年々減少。嬉野茶時は、そうした現状に危機感を抱く若手茶農家たちが、お茶の新しい魅力を発掘し、自分たちから発信していこうと企画したものです。 その第一弾が、2016年8月、期間限定で開設した喫茶・嬉野茶寮でした。和多屋別荘と旅館大村屋の中にオープンした喫茶は、茶農家自らが自慢の茶葉でお茶を淹れサービスするという、今までにない形式のものでした。初めての試みで不安もありましたが、ふたを開けてみると席待ちの客が列を成すほどの盛況ぶり。 あまりの反響の大きさに、1回限りの企画だったところ、年に4回、四季を表現する茶事として継続することが決定。初回の「うれしの晩夏」に続き、「うれしの深秋」、「うれしの春夢」、「うれしの花霞」を開催しました。そして2017年の5月に、特撰の新茶を楽しむ新茶会を実施。会場は、山の中腹にある茶園にしつらえた特設の「天茶台」で、客は各日限定10人。ゆったりと新茶を味わってもらいながら、嬉野茶に対する茶農家の思いや栽培への姿勢を伝える貴重な機会となりました。 嬉野茶時のキーマンは、嬉野温泉の老舗旅館・和多屋別荘の代表を務める小原嘉元さんと旅館大村屋第15代当主の北川健太さん、そして茶農家の副島仁さん。同世代の3人は、それぞれの立場で嬉野の将来を見据えた新しい動きを模索していました。そこへ、副島さんをリーダーとする若手茶農家が結集。更に嬉野茶、嬉野温泉と並ぶ伝統産業・肥前吉田焼の窯元にも加わってもらい、嬉野を代表する三大ブランドのコラボレーションが実現することになりました。 嬉野茶寮が始まってまだ4年。が、既に各方面から注目を集めており、今後、さまざまな展開も期待されています。その一つが「肥前吉田焼デザインコンペティション」。 肥前吉田焼

伝統をベースに新しいものにもチャレンジする筑波山西麓の町 - 筑西

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茨城県郷土工芸品の桐下駄 現代に生きる伝統の職人技 日本古来の履き物と言えば、草鞋と草履、それに下駄です。明治維新で西洋化が進んでも、靴を履く文化は一般化しませんでしたが、戦後の高度成長期に入ると、日本人の生活習慣は大きく変化。道路のアスファルト化などもあり、下駄は日常品から嗜好品へと変わり、下駄の製造業者も全国的にどんどん少なくなりました。 そんな中、茨城県郷土工芸品に指定されている桐乃華工房は1951年の創業から66年、今も伝統を守り続けています。初代の猪ノ原昭吾さんは、江戸時代からの桐下駄産地である、お隣の結城市で修行をした後、現在地に工房を開きました。現在は2代目の昭廣さんと3代目の武史さんが桐下駄を作っています。桐乃華工房は関東で唯一、原木の製材から製造まで一貫して行っている桐下駄工房で、時には栃木や福島、秋田まで原木の伐採に出掛けることもあります。 桐は国産材の中で最も軽く、吸湿性が少ないのが特徴。また狂いや割れも少ないのですが、それでも原木で1~2年、更に木の特徴に合わせて切断(玉切)した丸太を約25cmの長さに製材(木取)してからも4カ月ほど乾燥させます。この時、アクを抜くため、桐材1枚1枚を井桁に組んで円環状に積み上げ(輪積)、雨風に当てながら自然乾燥させます。 十分に乾燥させた桐材は更に軽くなり、ここでようやく桐下駄の製造に取り掛かります。最初の工程は「組取」と言い、乾燥した桐材を円盤かんなでそれぞれの規格に削り上げ、糸ノコを使って二つに引き放し歯形をつけます。次に丸ノコで下駄の歯形と長さを決め裏側のかんなをかけます(七分)。その後、型に合わせて角を丸めて下駄の形を決め(鼻廻)、仕上げに穴穿けなど幾つかの工程を経て白木製品となります。これを桐本来の美しさである木目と光沢が十分に出るよう、とのこなどで磨き上げ、最後に鼻緒を付けて完成となります。ここまで約20工程、原木からすると約2年の歳月を要することになります。 下駄には天板に歯を接着した「天一」と、一枚物の「真物」があります。桐乃華工房でもその両方を製造していますが、「合目」という最高級の桐下駄も作っています。丸太から縦に切り出し、下駄の表を合わせた形で加工すると、一足の下駄は同じ柾目となります。これが「合目」で、原木からの一貫作業をしている桐乃華工

さまざまな表情を見せる水都・徳島の魅力 - 徳島

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シラスウナギ漁 吉野川の冬の風物詩シラスウナギ漁 徳島市には大小138もの川が流れています。その代表格が「坂東太郎」の利根川、「筑紫次郎」の筑後川と並び称される「四国三郎」こと吉野川です。 冬の夜、その吉野川河口で、幻想的な光景が見られます。漆黒の川面に黄色や緑色の光が浮かび上がり、遠目からはまるでホタルが飛び交うように見えます。これはウナギの稚魚、シラスウナギを追う漁師たちの船で、吉野川のシラスウナギ漁は夜間、川面をライトで照らして行われます。 潮に乗って遡上してくるシラスウナギを狙うため、大潮前後の干潮から満潮にかけてが漁には最適。また光を使う漁法のため、大潮でも満月の時は不向き。取材をしたのは2月26日の新月で、深夜1時頃に干潮、朝7時前に満潮の予想でした。吉野川河口にある徳島市第一漁業協同組合の和田純一専務理事に伺ったところ、条件的には未明の2時から5時頃が一番いいだろうとのことで、時間を見計らって吉野川へ向かいました。 和田さんも、以前はシラスウナギ漁に出ていましたが、シラスウナギは風のある日の方が多いそうで、強い風が吹く冬の夜中に水しぶきを浴びながらの漁はきついため、最近はもっぱらマスコミや写真愛好家の対応を引き受けているそうです。 「風が弱い日を狙って年に2、3度、川に出てみることもあるんですが、私が行くと、若い漁師から『今日は和田さんが来てるからだめだ』などと言われ、からかわれます(笑)」 和田さんはそんな話をしながら、漁や船について説明してくれました。 シラスウナギは、体長5cmほどで、細くて半透明。冬から春にかけ、黒潮に乗って東アジア沿岸を回遊し川を上ります。日本では吉野川を始め鹿児島や宮崎、高知、静岡などの川に遡上します。徳島の漁期は12月15日から翌年4月15日まで。国内の漁獲量はピーク時には年間200トンを超えていましたが、近年は大幅に減少、10トンを下回る状態が続いています。 夜間、吉野川の川面をライトで照らして行われるシラスウナギ漁 以前は直接川に入り、岸部近くで漁をしていましたが、現在は船に発電機を積み、船尾に集魚灯を付けての漁が一般的。吉野川では600Wから1KWのLED電球で川面を照らし、舵を股で挟んで船をバックさせながら、川面に浮かぶシラスウナギを