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桜と共に春告げる、湖北長浜曳山まつり - 長浜

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絢爛豪華な曳山12基、90年ぶりに八幡さまにそろい踏み 琵琶湖の東北岸、湖北と呼ばれる一帯が桜色に染まる頃、その中心長浜の街が活気づきます。囃子(しゃぎり)の音色と「ヨイサー、ヨイサー」の掛け声を耳にすれば、長浜っ子は花見どころではありません。 彼らが気もそぞろになる「長浜曳山まつり」は、毎年4月14〜16日に長浜八幡宮を中心に行われる長浜最大のまつりです。京都の祇園祭、岐阜の高山祭と並んで日本三大山車祭りに数えられ、430年の歴史を持ちます。 安土桃山時代、当時の長浜城主であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に初めての男子が誕生した時のこと。これを大いに喜んだ秀吉が、城下の人々に砂金を振る舞ったところ、町民がそれを元手に曳山を作り、八幡宮の祭礼に曳き回したのが始まりと言われます。 長浜の曳山は、大きいもので長さ9m高さ7mで重さが約6トン。そのほとんどが江戸中期に作られたもので、漆や金銀の彫刻など歴代の名工の技が惜しみなく注ぎ込まれた絢爛豪華な様から「動く美術館」とも形容されます。 きらびやかな曳山の魅力もさることながら、まつりの華は何と言っても「子ども歌舞伎(長浜では狂言と呼ぶ)」です。5歳から12歳の男の子たちが鮮やかな衣装に身を包み、曳山に設けられた四畳半ほどの舞台で大人顔負けの熱演を披露します。 曳山は全部で13基。太刀渡り祭事のため毎年出場する長刀山を除く4基ずつが交代で狂言を上演します。例年はこの4基のみが「登り山」と称して八幡宮の境内に並びますが、2006年7月に長浜八幡宮が神社本庁の直轄となる別表神社に格上げされたことから、取材した年は狂言を上演しない8基の曳山もお目見え。同境内に12基が勢ぞろいするのは1917(大正6)年以来90年ぶりでした。 まつり好きな長浜町衆の心意気を今に受け継いで 連なる曳山を眺めていて、素朴な疑問が浮かびました。曳山の値段です。全く見当がつかないので、曳山博物館を訪ねてみました。 江戸後期に曳山の一つ鳳凰山が作られた記録が残っており、装飾の工賃が1500両とあります。今の価値に換算すると約3億円。材料費や人件費など、諸々を合算すると20億から30億円近くになります。 それが長浜には13基もあるのです。費用を拠出していたのは、曳山まつりを愛したかつての町衆たち。当初の曳山はずいぶん小さく、時代を経るごとに巨大化していきますが、

鋼の切れ味に込めらているのは、鍛え、受け継がれてきた刀匠の技 - 越前

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鍛冶屋の醍醐味「鍛造」が、刃物の質を左右する 時は南北朝時代。京都の千代鶴国安という刀匠が、刀剣製作に適した地を求め、当時「府中」と呼ばれていた福井県越前市に腰を据え、刀を作る傍ら近郊の農民のために鎌を作りました。これが、越前打刃物がこの地に起こった経緯です。江戸時代には福井藩の保護政策によって株仲間が組織され、産業として発展します。 販路が全国へと拡大したのは、ひとえに在郷の漆かき職人によるところが大きいといいます。奥羽、関東、中部方面へと漆の採集に出かけて行った彼らが携えていた越前鎌が、訪れる場所で「よく切れる」と評判を呼んだのです。いつしか漆かき職人は鎌の行商を兼ねるようになっていきました。 明治時代には、鎌で約8割のシェアを占め全国一の生産量を誇るようになります。以来、日本古来の火づくり鍛造技術と手仕上げを守りながら、包丁や鎌、鉈、刈り込み鋏などを生産し、1979(昭和54)年には、業界では初めてとなる伝統的工芸品の指定を受けています。 その翌年に伝統工芸士に認定された藤下新次さんが、工場を見せてくれるというのでお邪魔しました。 ベルトハンマーがけたたましく鳴り響く藤下さんの仕事場は、市街地から離れた工業団地の中にありました。9軒の打刃物工場が軒を並べ、刺身包丁や鎌など、それぞれの工場で職人が得意とする打刃物を作っています。 藤下さんが作るのは菜切り包丁とそば切り包丁です。大量生産ではなく納得のいく1本を丁寧に作り上げる、そんな仕事を60年以上続けてきました。工場では、ベルトハンマーの前に腰掛けた藤下さんが、長さ100mmほどの鉄の固まりをたたいて伸ばしている最中でした。 越前打刃物には完成までに20以上の工程があります。まず最初は「鋼作り」や「地鉄作り」といった刃物の素材作り。鉄には炭素が含まれていますが、特に炭素を多く含むものを「鋼」と呼びます。鋼を鍛造して金属組織を強靭に変化させた後、含有炭素の少ない刃物用軟鉄「地鉄」を継ぎ合わせたものが刃物の元となります。刃物の種類によって継ぎ合わせる方法が異なりますが、菜切り包丁の場合は、鋼を中央に両側を地鉄で挟んだ形となります。 伝統工芸としての越前打刃物はこの工程が手作りでなければなりませんが、最近は製鉄技術が高度になって、あらかじめ地鉄と鋼が鍛接された複合材を使う機会も多いといいます。複合材を使用すれば、伝統

日本海を臨む木都上空で、巨大アッカンベーが風に舞う - 能代

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謎多きべらぼう凧起源説 能代港の岸壁近くの公園で、数人の大人がかがみ込み、いそいそと何かの準備を進めています。何が始まるのかと眺めていると、「せーのっ」の掛け声と共に3畳はあろうかという大凧が立ち現れました。 真っ赤な舌を出した何ともユーモラスなこの凧こそ、能代凧の代名詞「べらぼう凧」です。 この凧、坂上田村麻呂が東北地方へ遠征した際に入港の目印にしたとか、宴会で舌を出した顔を描いて腹踊りをした船乗りが、船頭に「このべらぼうめ!」としかりつけられたが、殊の外喜んだ船主がその絵で凧を作らせたのが始まりとか、由来は諸説あります。絵柄を検証したところ、明治の中頃に今の形になったことが分かっています。 舌を出す絵柄でべらぼう凧の名は知られるようになりましたが、会津若松の「会津唐人凧」を始め長崎県や隠岐の島など日本海側に何カ所か舌を出した凧があり、能代凧だけが唯一のアッカンベー凧というわけではありません。 「他の地域で舌を出している凧はいずれも絵柄が勇ましいけれど、能代の凧は子どもの顔。しかも男女の絵柄があることで珍重されるんです」 と話すのは、能代凧保存会の角谷俊明会長。能代凧の保存と継承を図る活動を行う傍ら、会のメンバーらとたまに集まっては凧を揚げるという根っからの凧好き。この日、岸壁で大凧を揚げようとしていたのも能代凧保存会の方たちでした。 べらぼう凧の男と女の見分け方は簡単。芭蕉の葉が描かれた頭巾をかぶった方が男べらぼうで、ぼたんの花の頭巾をかぶっているのが女べらぼう。一目瞭然です。角谷会長に、どちらの凧が好きか聞いてみました。 「能代凧はべらぼう以外にも、七福神や金太郎など絵柄も豊富。地元では特に武者絵を好む人が多いですよ」 聞くと保存会のメンバーは皆、武者絵派。なんでも上空で風を受けて、凧の骨が反った時、武者絵の絵柄の目の部分がキリッとつり上がって、ますます勇ましく見えるのがたまらないといいます。 伝統を今に伝える凧職人 かつては5軒あった能代凧の専門店も今では1軒を残すのみ。1887(明治20)年創業の「北萬」では、夏は提灯、冬は凧を作るのが祖父の代からの家業です。現在は2代目の北村長三郎さんから娘のマツ子さんに代替わりしています。 「40年前は子どもたちが競って凧を買いに来て、行列が出来る程だったんだけどね」 と、長三郎さんが感慨深そうに話すと、マツ子さんも、

安全と安心を育む果実は、瀬戸内の潮風薫る「レモン谷」から - 尾道

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安心・安全「エコレモン」の島 瀬戸内海に浮かぶのどかな島で、ユニークなエコを見つけました。その名も「エコレモン」。 自然界にある天然物由来の農薬だけを最少限の使用回数・量に控えて栽培したレモンです。減農薬栽培だから環境にもやさしく、「丸かじりしても安全・安心」が売り文句。皮ごと食べられるから輪切りをハチミツ漬けにして、そのまま紅茶に入れたりケーキの材料に出来ると評判です。 このエコレモンの栽培に島を挙げて取り組んでいるのが、尾道市瀬戸田町。広島県と愛媛県を結ぶしまなみ海道の中程に位置する生口島と高根島からなる町です。 平均気温は15.6度と暖かく、年間降水量も1100〜1200mmと少量。両島とも島の半分が急傾斜地で占められているため、水はけの良さが求められる柑橘栽培には、絶好の条件を備えています。 「レモンは寒さに弱く、霜が降りるような場所ではうまく育ってくれません。それに風にも弱い。風に当たると表皮に傷が付き黒い斑点が出来る病気になってしまう。だから暖かくても台風が来るような土地は、レモン栽培に適していないんです」 と、生産者の脇本初雄さんは話します。 瀬戸内は大きな台風も来にくいし、海からの温暖な潮風のおかげで、レモン畑がある一帯は無霜地帯になっています。寒さと風に弱いレモンにとって、瀬戸田ほど居心地の良い場所はありません。 そんなわけで、1926(昭和元)年に国産レモンを初めて栽培する場所として瀬戸田が選ばれました。以来、瀬戸田は生産量日本一のレモン栽培地として全国的にも知られるようになります。 国内全体で流通しているレモンはまだ輸入品が多く、国産レモンが占める比率はたったの5%ですが、そのうち35%はこの瀬戸田で作られたレモンです。 レモンの木、再び 国産レモン発祥の地は、生口島の「レモン谷」と呼ばれる柑橘畑地帯です。谷というよりはどちらかというと急な斜面といった趣きですが、レモンの木を始め、みかんなどの柑橘類が実を結んでいました。 レモンの収穫は10月から翌年の5月まで。5月下旬から花を付け始めると、枝の剪定や少量の農薬散布など最低限の防樹をし、有機肥料を与えるとすくすくと育ちます。秋になって大きくなった実から順次収穫します。 豊作も不作もなく比較的収穫は安定しているといいます。良い時でコンテナ一つ1万円で取引されたことから、かつては「レモン成金」という

柳行李のクラフトマンシップが流れる、鞄の街生まれの国産ブランド「豊岡鞄」 - 豊岡

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鞄の街、豊岡のルーツ 兵庫県北部、但馬地方の中心都市、豊岡市。志賀直哉の『城の崎にて』で知られる城崎温泉があり、国内最後のコウノトリ生息地として有名なこの街は日本最大規模の鞄の生産地でもあります。メーカーや卸商、材料商など17社で構成される全国で唯一の鞄関連企業の工業団地を擁し、最盛期には国産鞄の約8割を生産しました。 豊岡の鞄産業のルーツを探っていくと、この地で生まれ、但馬の風土に育まれて今日に至る地場産業・杞柳細工にたどり着きます。奈良正倉院に伝えられる柳で編まれた「柳筥」は、豊岡のある但馬地方から上納されたものと言われています。植物を編む古来のこうした技術が、街の中心を流れる円山川流域に自生していたヤナギの一種「コリヤナギ」と結び付き、豊岡に杞柳細工が定着しました。 今でこそ少なくなりましたが、真冬の田んぼにゆうに3mはあるコリヤナギの枝の束が立てられている光景を豊岡で見かけることがあります。束のまま越冬させ、春先に4〜5本ずつまとめて水田に挿すと1カ月もすれば枝から新芽が出ます。この時、枝の表皮を剥いで中身を乾燥させると、杞柳細工の原材料となります。これを麻糸で編んで作った柳行李は江戸時代、当時の藩主によって保護奨励され専売制度が確立。「豊岡の柳行李」として世に知られるようになります。 「コリヤナギには特殊な成分が含まれているため虫が付かない。軽くて通気性に優れ、耐久性も兼ね備えているので、衣類を守るケースとして古くから重宝されてきました」 と、兵庫県杞柳製品協同組合の田中榮一理事長は柳行李の優れた点を説明します。 江戸時代の飛脚は大切な文書を雨から守るため、富山の薬売りは薬を湿気から守るため、この柳行李を使っていました。明治に入ると、柳行李に3本革バンドを取り付けたトランク型の「行李鞄」が登場。この行李鞄こそが豊岡製鞄のルーツです。箪笥一棹分の衣類を詰めて、2階から投げても壊れない強度が売りであったため、軍用にも採用されました。 時代の流れ、新素材の開発、そして地域の業界人の先取の気性によって、柳行李・行李鞄は、メイド・イン・ジャパンの豊岡鞄として日本全国の販路へと流通していくのです。 地域ブランド・豊岡鞄の誕生 人工皮革や塩ビレザー、ナイロンを素材とした鞄では全国シェア8割を誇った時代も次第に色あせ、円高による輸入増大や問屋流通の変革によって、豊岡の鞄は

待ちに待った季節の到来に、氷上の太公望は、寒さを忘れて竿を振る - 高崎

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ファン待望の全面氷結 冬期に湖面が全面氷結する榛名湖は、氷上ワカサギ釣りのメッカ。例年1月下旬から2月にかけて氷上開きが行われ、最長で3月初旬sまで氷上の釣りが楽しめる。多い時で1日3000人もの人が、氷穴から釣り糸を垂らすといいます。 暖冬の影響で氷結がなかなか進まなかった2007年は、氷上ワカサギ釣りが異例の中止に。9月から11月末までのボート釣りでしかワカサギ釣りを楽しむことが出来ませんでした。 「中止になるとお客さんが来ない。当然経済的な打撃が大きい」 そう話すのは、榛名湖漁業協同組合の野口正博組合長。遊漁券による収入を見込む同組合だけではなく、ホテルや旅館など地域経済全体に大きな影響が出ます。 取材した2008年も、直前まで中止に傾いていましたが、1月下旬に急な冷え込みがあり湖面が全面氷結。氷の厚さも基準の15cmを満たし、例年より1週間ほど遅い2月6日に解禁されました。 2年越しとなる氷上の釣りですが、食いは活発なようで、1日に1000匹を超える釣果を挙げた人もいました。 水が奇麗だからワカサギがうまい 湖畔のどこからでも眺められる榛名富士の麓に広がる榛名湖は周囲約6km、標高1100mの山上湖。全面凍結する冬以外にも、春は新緑、夏は避暑、秋には紅葉でにぎわいます。 湖には注ぎ込む川がなく湧き水で満たされているため、水深約5mまで湖底が見えるほどの透明度を誇ります。 「榛名湖のワカサギが味が良いのは、この奇麗な水のおかげなんです」 と、湖畔のボートハウスのご主人園田一孝さんが教えてくれました。 この味を求めてか、遠くは山梨や長野からも釣り客が集まって来ます。取材で訪れた日も、平日だというのに氷上には大勢の人々。土日ともなると車の置き場に困るほどの釣り客であふれます。 榛名湖でワカサギ釣りが始まったのは昭和25年頃と言われています。ワカサギは、マスを育成するための餌として入ってきました。水温が低いためマスは思ったように育ちませんでしたが、餌のワカサギは湖に適応しました。ワカサギは水温が下がれば下がるほど、動きが活発になる魚なのです。 全国的にもワカサギ釣りが盛んな群馬県内でも、榛名湖の名がその筆頭に挙がるのは「誰でも簡単に釣れる」ため。訪れる人にたくさん釣ってもらうために漁協では毎年8万粒もの発眼卵を放流しています。 「ワカサギは1年魚。7割はその年のうち

緻密な計算で割り出した点と線が、織機で再現される絹の芸術 - 奄美

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着用禁止令を乗り越えた伝統技術 奄美大島では、海の彼方にニライ・カナイと呼ばれる楽園があって、そこには人間に豊穣をもたらす神がいると信じられてきました。だからここでは海を眺めることは、神を感じる行為に近いのです。そんな神々しいイメージを美しく格調の高い大島紬に重ねたく、写真撮影を試みました。 「珊瑚礁が広がる美しい海を眺める島の女性。身にまとっているのは普段から着慣れた大島紬」 こうした光景が古くから、連綿と続いてきたのだろうと感傷に浸っていたのですが、話を聞くと実際はそうではなかったようです。 「島役以下、一般島民の紬着用を一切禁ず」 1720(享保5)年、この時、奄美を支配していた薩摩藩が、奄美大島を含む群島の島民に対してこのようなお触れを出しました。絹布着用禁止令です。その当時、既に他に類を見ないほどの高い品質で評価されていた大島紬は、以来、薩摩藩への献上品として織ることはあっても、役人以下の島民が日常着として着ることはありませんでした。美しい紬を織りながらも、身にまとうことを禁じられた島の人々の悲しみはいかほどであったでしょう。明治の世になり薩摩藩による支配が終わるまでこの禁止令は続きましたが、島の人々は絹以外のからむし(苧麻)や木綿、芭蕉といった素材を使って染織を続け、1300年も前にさかのぼると言われる紬織りの灯火を絶やすことはありませんでしたな。 大島紬は2度織られる 大島紬は絣糸を作って模様を描き出す先染織物。友禅のような後染めの反物とは違い、設計図をもとに絹糸の段階で染色します。絹糸に色を染め分けるため、染め残す部分を木綿糸などで括って防染処理を施した後に全体を染色。括った糸を解いて染め残された部分に着色した後、織機で模様を再現するという、気の遠くなるような手間をかけて完成します。総工程数は30以上にも及び、それぞれ専門の職人が分業で担当します。 先染織物の中でも、大島紬の大島紬たるゆえんは絣模様が繊細にして緻密な点にあります。1反(12m強)の中に何百何万個というおびただしい絣模様を配した大島紬は「絣の宝石」とも呼ばれ、世界一精緻な絣として国内外で高い評価を得ています。この緻密な絣の美を実現しているのが、1902(明治35)年に開発された締機です。 方眼紙にドットで描かれた図案に従って真っ白な絹糸を並べ、その絹糸を木綿糸で括って防染するのですが、