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あのつゆ、あのだしの深みを支えるのは黒潮の恵みが生んだ飴色の宝石 - 土佐清水

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全国一を誇る宗田節の産地 南方から暖かい海水を運んでくる黒潮が日本で最初にぶつかるのが高知県南西部、太平洋に突き出すように伸びる足摺岬です。周辺海域は魚介類の宝庫で、岬からほど近い土佐清水は県内有数の水揚げを誇る港町として知られます。漁師が1本の竿と自らの腕だけでカツオやマグロを釣り上げる豪快な一本釣り漁業が昔から盛んです。最近では脂の乗りのいいゴマサバを「土佐の清水サバ」として売り出し、人気を博しています。もう一つ土佐清水で忘れてはならないのが、全国生産量の8割を占めている宗田節です。 宗田節とは、地元ではメジカと呼ばれるカツオの仲間のマルソウダを原料とした節のことです。カツオ節に比べ濃厚で力強いだしが取れるのが特徴で、料亭や割烹を始め、日本全国のうどん・そば店でだしやつゆを作るのに欠かせない食材となっています。メジカは鮮度が落ちやすいだけではなく、血合いが多く生食には向きませんが、宗田節になると独特の味と香りを生み出す最高の一品に生まれ変わります。 漁が行われるのは足摺岬の沖合。水温20度を超える黒潮の本流に沿うように水温19度前後の流れがあり、そこにメジカは生息します。夜明け前の午前3時、沖に向けて出航した漁師は漁場に着くと伝統の曳き縄漁に取りかかります。円を描くように船を旋回させながら撒き餌をまき、船から張り出された4~5本の竿に疑似餌を付け一尾ずつメジカを釣り上げていきます。 漁のあったその日の昼から夕方にかけて市内の各港で水揚げが行われます。冷却された状態で加工業者に落札されたメジカはすぐに宗田節製造工場である節納屋へと運ばれ、翌朝までに沸騰した釜の中に入ります。メジカを間近で見てみると、なるほど名前の由来「目近」が示す通り、目と口の距離が近く、どこか幼い面構えです。カツオに比べると一回りから二回り小ぶりな魚です。漁期に合わせてそれぞれ呼び名があり、1~3月末の寒い時期に水揚げされたものを「寒メジカ」、5月末~7月初めの「梅雨メジカ」、9~10月中旬は小型で笹の葉に似ていることから「笹メジカ」、11月~12月中旬にとれるものを「秋メジカ」と呼びます。中でも寒メジカで作る宗田節は、大きさ・品質ともに最上級とされています。 大釜での煮熟 釜で煮られ、煙で燻される 宗田節の加工業を営む中平健さんの節納屋をのぞいてみると、市場から運ばれてきた新鮮なメジカを鉄製の

名水湧き出る奥越の山間に、城下町の面影を残す小京都 - 大野

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古い町割が残る、北陸の小京都 福井県東部、岐阜県との境にある大野市は、白山連峰に囲まれた大野盆地に開けた町です。市街地はかつての城下町の面影を残し、北陸の小京都として知られます。町を見下ろす標高250mの亀山に城を築いたのは、織田信長の武将であった金森長近。後に飛騨高山や上有知(現在の美濃市)を築いた都市計画に優れた才を持つ人物です。越前一向一揆の鎮圧で功を挙げた長近は、1575年に大野郡の3分の2(3万5000石)を拝領すると、すぐに城の建設に取りかかり、同時に亀山の東側で城下町の建設も開始しました。城のそばには武家屋敷を置き、京の街を模し、東西南北に6本ずつ通りを交差させ、碁盤の目というよりは1つの区画が縦に長い短冊状になるような町割りを行いました。東の端を南北に貫く寺町通りにはその名の通り、中世から近世にかけて建てられた九つの宗派の16の寺院が集められ、通りの両脇に軒を連ねています。町の外郭に意図的に配置された寺院は、防御壁の役割も担っていたといいます。 一方、町の中央部を東西に走る七間通りは、越前から美濃へ抜ける美濃街道にあたり、城下町の中心街として発展しました。創業150年以上の老舗が並ぶこの通りには、春分の日から大晦日の間、毎朝7時から市が立ちます。金森長近の時代から続く朝市で、近郊の農家が丹精込めて育てた野菜や取れたての山菜が並びます。市民の台所として毎朝開かれており、この日はナスにジャガイモ、ネギの苗といった野菜や山菜、切り花などが売られていました。たまに物珍しそうに売り物をのぞく観光客が混じりますが、客の多くは市民。それぞれに馴染みの店があって、二言三言会話を交わしながら買い物を楽しんでいました。 こんこんと湧き出す「清水」の町 扇状地の上に造られた大野の地下には、水を通さない岩盤が横たわっており、その上に周囲の山々が吸い込んだ水が地下をゆっくりと移動し溜まっていきます。そのため地下水位が上がると、町の随所で湧水が地表にあふれ出ます。湧水は清水と呼ばれ、長く町を潤してきました。 本願清水 金森長近もこれに目を付け、特に水量が豊富だった本願清水を整備し、生活用水として利用すべく水を市街地に引き入れました。この水は南北を貫く5本の通りの真ん中に設けられた水路を走り、町の人々に生活・防火用水として利用されました。今も寺町通りの脇に水路の名残がありますが、

日本家屋の象徴、畳表のふるさとを行く - 八代

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織り師の岡初義さん。自身が育てたい草と共に 生産量と作付面積は日本一 熊本県南部の八代市は、県下第2の人口を有する田園工業都市です。日本三大急流の一つである球磨川が注ぎ込む八代海(不知火海)に面する八代平野の北部に市街地が広がっています。平野の半分以上は江戸時代から近代にかけて干拓によって造成された土地で、全国でも有数の高い生産性を誇る農業地帯です。米やトマトの他、畳表の原料となる、い草の産地として知られます。 熊本県のい草栽培の歴史は500年も前にさかのぼります。1505年、八代郡千丁町の城主が、水辺などに群生していた、い草を農作物として栽培したのが始まりです。江戸時代になると、細川藩の貴重な特産物として栽培が奨励されるようになりました。その後、八代平野一帯は生産量と作付面積で共に全国の約9割を占める一大産地に成長しました。 今更説明するまでもありませんが、わらを圧縮した下地のわら床を、い草で織られた畳表で覆ったものが畳です。和室の床に用いられるこの伝統的な床材は、世界に例を見ない、日本で独自に発達してきたものです。鎌倉時代までは板床に敷くクッションのような使われ方であったようですが、室町時代になり書院造の建物が登場すると、部屋全体に畳を敷くスタイルが確立され、茶道の拡大に伴って普及しました。とはいえ畳は当時から高価なもので、普及したとは言っても寺社を始め公家や侍の家屋でのことです。日本の一般家屋の床は依然板張りで、い草を織ったゴザやムシロが使われました。畳が広く一般家庭にまで普及するのは第2次大戦後のことです。 畳が市民権を得たのは、やはり日本の気候・風土に適したものだったからだと推測されます。畳表は、梅雨などの高湿度期には水分を吸収し、冬の乾燥期には水分を放出することで湿度調節の役割を果たし、居住空間を快適に保ちます。この機能の秘密は、い草の内部にあります。い草の内部にはスポンジ状の組織があり、そこに含まれた水分が空気の状態によって放出や吸湿を繰り返します。まさに天然の除・加湿器です。また、よく見ると断面のスポンジ組織は六角形のハニカム構造になっているため、弾力性に富みながらも強度に優れ、床材に最適な素材であることが分かります。天然素材として優れた特性を持つい草は畳に加工される以外にも、スポンジ部分に油を染み込ませ、和ろうそくやあんどんなどの芯として使われてい

鳴門の潮が育んだ王様と呼ばれたサツマイモ - 鳴門

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甘さの秘密はミネラル豊富な海砂 蒸したてを二つに割ると、鮮やかな紅色の表皮に映える黄金色の中身が現れました。見た目の美しさは期待を裏切らず、栗のようにホクホクとした食感の後に際立つ甘さが舌の上を走ります。鳴門金時は、サツマイモのメジャー品種である高系14号の改良種に付けられたブランド名で、吉野川及び旧吉野川の河口域に広がる特定の地域で栽培されたものだけが名乗ることが出来ます。その甘みの強さから「サツマイモの王様」とも形容され、質の高さでその名は全国区です。 吉野川の河口域は、もともと稲作が行われていた地域です。平野部には一面水田が広がっていましたが、海岸沿いは塩害がひどく、海水にまみれた砂地が大半を占め、実際には米はおろか野菜作りにも適さない土地でした。そこで白羽の矢が立ったのが、塩害にも強いサツマイモです。サツマイモ栽培に適している土壌は、普通の野菜とは違い水はけの良い場所になります。砂地は願ってもない好条件でした。また、鳴門市周辺は1年を通して温暖で降水量が少なく気候も生産に適していました。こうして昭和40年代初め頃から、稲作からサツマイモ栽培に転じる農家がポツポツと現れ始めました。鳴門市大津町の林勝さんもその一人です。サツマイモ栽培の第一歩は土壌改良です。水をため込んでしまう水田に大量の砂を入れ、水はけの良い畑に作り替えました。 「粒子が細かすぎる川砂ではどうしても水が詰まってしまうので、畑に入れたのは近くの海で採取した粗めの砂。ただ、入れたての砂には随分塩分が含まれていたので、最初の頃は良い形のイモが出来ず苦労しました。雨が塩気を流してくれるまでに2~3年はかかりました」(林さん) 砂地畑からほどよく塩分が抜けると、鮮やかな皮色と美しい紡錘形をしたサツマイモが出来るようになりました。また、海砂にはもう一つ別の効果もありました。海水のミネラル分を豊富に含んだ砂地畑で育てた結果、糖度が格段に上がったのです。同じ苗を別の土地で栽培しても、この色、形状、糖度は出ないというから不思議です。 寝かせるほどにうまくなる 鳴門金時の栽培準備が始まるのは、まだ花冷えのする4月の初めです。砂地畑に高い畝を作り、それを黒いビニールで覆った後、等間隔で穴を空け、温室で育てられていた苗を手作業で植え込んでいきます。この時、畝に対して苗を斜めに植え込むと、均一で食べやすい大きさの芋が鈴

ジャージー牛が草食む高原生まれの濃厚ミルク - 真庭

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国内最大のジャージー酪農地域 岡山県と鳥取県との県境、中国地方最高峰を誇る大山の東側に連なる1000m級の三つの山は、東から下蒜山、中蒜山、上蒜山。三座を総称して蒜山と呼びます。南側斜面の中腹には西日本屈指のリゾート地蒜山高原が広がり、夏ともなると避暑地として県内外から多くの人々が訪れます。また上蒜山の裾野、標高550~650m地点には40haもの放牧地が広がり、高原の風景にはぴったりの牧歌的な雰囲気が漂っています。 ここで採草された草を主食にしているのは、蒜山の酪農業を支える乳牛「ジャージー牛」。イギリス領海峡諸島のジャージー島原産の牛で、もともと英国王室や貴族が飲むミルクを作るため特別に品種改良されたものです。 白と黒とがまだらになったホルスタイン種の牛乳に比べ高タンパクで、ビタミンやミネラルなどの栄養価が高いのが特徴です。乳脂肪5%前後、無脂固形分が9%以上と、世界の5大乳用種の中でも最も高い乳成分を持ち、乳質は極めて濃厚。カロチンを豊富に含むため、搾りたての生乳は淡い金色を帯び「黄金のミルク」とも呼ばれます。 日本で飼育されている乳牛の98~99%はホルスタイン種で、次いで多いのがこのジャージー牛ですが、全体の約1%と圧倒的に少なくなっています。その上、ジャージー牛は体高130cm、体重400kg程度と小柄なため、1日の採乳量はホルスタインの3分の2しかなく、生産量は限られています。 そのため知名度はあまり高くなかったのですが、近年、乳本来の甘さと深いコクのある濃厚な味が注目され、希少価値の高い高級品として人気を博すようになりました。現在、蒜山一帯で全国の約5分の1にあたる1900頭のジャージー牛が飼育されており、飼育頭数と牛乳の生産量で日本一を誇っています。 蒜山を救った救世主 ジャージー牛がニュージーランドを経て、蒜山にやってきたのは1954年のこと。 標高500mに位置する蒜山高原は、昼夜の寒暖差が激しい山間盆地特有の気候。冬が長く寒さが厳しいため、農耕地としては恵まれていませんでした。今でこそ高原キャベツなどが特産品となっていますが、かつては何を作っても収穫が安定しないという状態が続きました。 そんな中、村(当時)は月々の現金収入が見込め、村の振興を図り、ひいてはこの地の生活環境を変える可能性のある乳牛に目を付けました。なにぶん初めてのことであったた

再び畑を赤く染めるトウガラシの里 - 大田原

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トウガラシが日本の食卓に至るまで かつて日本では盛んにトウガラシが栽培されていました。最盛期の1963年頃には年間約7000トンも生産され、海外にも輸出されていました。そのピーク時を支えたのが、栃木県大田原市。当時、国内生産量の7割を占めるほどの一大産地でした。栃木県の北東部に位置するこの町が、なぜ日本有数のトウガラシ産地となったのでしょうか。これを解明するには、日本におけるトウガラシの歴史について、順を追って説明する必要があります。 トウガラシはアメリカ大陸中南部原産のナス科植物で、アメリカ大陸を発見したコロンブスによって、1493年に初めてヨーロッパに移植され、またたく間に世界中に広がりました。初期の頃は香辛料としてではなく、気管支炎などの痰切り、食欲増進といった薬効が重視されていました。大航海時代においても船乗りたちの薬として積み込まれ、これが交易先の国々に伝わるのです。 日本に入って来たのは安土桃山時代。「唐辛子」というネーミングから中国からの伝来をうかがわせますが、意外にもポルトガルの南蛮船によって持ち込まれました。船員たちにはかけがえのない食材でしたが、日本では当初薬として利用されたほか、足袋のつま先に入れる霜焼け止めとして用いられていました。 豊臣秀吉の軍が朝鮮に出兵した際も、凍傷予防用にトウガラシが装備されています。一説によると、この時初めて朝鮮半島にトウガラシが伝わったといいます。今では韓国料理にはなくてはならないアイテムですが、伝来のきっかけがかの地を攻めた秀吉軍だったとは意外です。 その後、トウガラシはそばやうどんの薬味・七味唐辛子として普及。無病息災、厄除けの土産として寺社に露店が立つようになり全国に広まっていきました。明治の世になり、脂っこい食べものが多く入って来るようになると、薬味としてだけではなく料理にもトウガラシが使われるようになります。そして昭和初期にカレーライスが爆発的にヒットしたことで、トウガラシは食材として確固たる地位を築くことになります。 一大産地、大田原の誕生 1923年の創業で、トウガラシやそれを使った製品の製造販売を手がける吉岡食品工業㈱の創設者、吉岡源四郎はいち早く人気のカレーライスに目を付けました。カレーに使われているスパイスはほとんどが外国産。在庫が不安定な上、値段の上がり下がりも激しい。そこで、ショウガ、ウコン

本物の中の本物を輩するはまぐり碁石と、かや碁盤の里 - 日向

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日向はまぐり碁石の誕生 囲碁の世界にかつてない異変が起きています。碁会所に集った年配の男性たちが、日がな一日碁盤を挟んでじっくりと対局・・・そんなイメージを覆す光景が最近見られるようになりました。囲碁普及団体が開催する最近のワークショップでは、参加者の7割、入門者のほぼ9割を20~30代の女性が占めるというのです。童話の森にいそうな「森ガール」や、アウトドア・ファッションに身を包んだ「山ガール」といった女性たちが一世を風靡していますが、最近は新たな趣味として囲碁をたしなむ「囲碁ガール」なる若い女性たちが急増中なのです。なんでも「集中力が養われ」たり「幅広い年代と対局を楽しめる」のがだいご味だと話しますす。ともあれ年配者の娯楽と思われていた囲碁は、確実に新しいファンを獲得しています。 さて今回は、その囲碁にまつわる話。名が示す通り19×19の格子が描かれた碁盤の上に白と黒の石を交互に置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争うゲームです。発祥は中国と言われ、日本には平安時代に入ってきました。源氏物語など古典作品にも数多く登場し、後に庶民にも広く普及しました。地域でルールの違いがあったり、ルールそのものに矛盾も存在しましたが、徳川家康の時代に家元制が設けられ、これを機に囲碁のルールは統一されました。 黒石に今も熊野(三重県)で産出される那智黒石を使うように、もともと碁石の原料は石(または木)でした。白石に美しい透明感を持ったはまぐりの貝殻が用いられるようになるのは明治初期。桑名(三重県)で貝殻が厚いはまぐりがよく取れたため、大阪に運ばれて碁石に加工されました。その後、桑名のはまぐりの産出量が減少、碁石の原料が枯渇しかけていた頃、大阪で碁石屋を営んでいた石橋小七郎は、富山の薬屋から興味深い話を耳にします。 「日向のお倉ケ浜という場所に変わった貝殻がたくさん打ち上げられていた」というのです。早速、番頭を調査に向かわせたところ、これまで見たこともないよ うな分厚いはまぐりの貝殻が、足の踏み場もないほど散らばっていました。それからというもの、番頭は毎日貝殻を拾っては、船で大阪へ送り続けました。原料不足が解消された小七郎はたちまちにして大阪一の碁石屋になりました。 日向はまぐり碁石発祥の地であるお倉ケ浜 この時、お倉ケ浜で貝殻拾いの日雇として働いていた者の中に原田清吉という人物が

古き良き情緒あふれる石段のある温泉街 - 渋川

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湯の町伊香保、誕生譚 群馬県のほぼ中央、標高700mの榛名山の中腹で湯煙を上げる伊香保温泉は、草津温泉と共に県を代表する、いや日本が誇る名湯です。 開湯は第11代垂仁天皇の御代、すなわち紀元前後という神話めいた言い伝えもありますが、6世紀末から7世紀の初めにかけて、榛名山の東にそびえる二ツ岳の二度にわたる噴火で湯の湧出が始まったと考えられています。当時、都のあった奈良からは、はるか遠方の地ですが、8世紀後半には伊香保の名は都人の知るところとなります。 と言うのも、『万葉集』に伊香保の名が登場するのです。全4516首中、東国14カ国を舞台とした東歌は230首収録されていますが、中でも上野の国(現在の群馬県)を詠んだ歌が他国を上回る25首、うち伊香保を詠んだものが9首もあります。現在の伊香保より広い範囲を指す地名であったようですが、この地が都人の旅情をかき立てたことは間違いありません。ただし9首の中に伊香保が温泉であったという記述はなく、歴史に伊香保温泉が登場するのは南北朝時代(1300年代)になってからのことです。 ところでこの伊香保という地名ですが、「湯がたぎる」状態をアイヌ語で「イカホップ」と言いますが、どうやらこれが語源であるようです。 日本の多くの温泉街が川沿いに形成されているのに対し、伊香保は石段に沿っているのが大きな特徴です。伊香保温泉のシンボルとも言えるこの長い石段が出来たのは戦国時代。1575年の長篠の戦いで織田信長に敗れた武田勝頼が、支配地であった伊香保に負傷兵を連れて来たことに始まります。 この頃、浴場や旅籠は山中の源泉近くにありましたが、武田軍はより多くの負傷兵を収容するために、今の石段のある辺りに湯宿を移転させ、療養場所として整備しました。これが現在の石段街の原型となっています。 勝頼は、長篠の戦いで鉄砲の威力を目の当たりにしたこともあって、石段建設の際、攻められても玉が届かないよう石段を真っすぐにせず、あえて見通しが悪くなるように作らせました。鉄砲の威力が最大限に発揮された長篠の戦いは、これまでの戦を変えた戦いとして知られますが、こと伊香保に関しては街の景観を決定付けた戦でした。 伊香保温泉のメーンストリート石段街 石段街と黄金の湯 両側に土産店や飲食店などが軒を連ねる現在の石段は、温泉街のメーンストリート。いちばん下からてっぺんの伊香保神社