島へ行くなら見ておいで……華麗なる人形劇、直島女文楽 - 直島
アートの島の伝統芸能
保元の乱(1156年)で敗れた崇徳上皇は讃岐へ流される途中、瀬戸内に浮かぶとある島に立ち寄った。そこで触れた島民の純真さ、素朴さを賞して、上皇はこの島を「直島」と名付けたという。
古代には製塩で栄え、江戸期には幕府の天領として瀬戸内海の海上交通の要所を占めた直島は、近年になって、三菱の銅精錬所(後の三菱マテリアル)がある企業城下町として大きく発展。最近では、ベネッセコーポレーションによって現代アートとリゾートの融合をテーマとした空間づくりが進行している。1998年には島に残る古い建築物やその跡地を改修してアーティストが作品に仕立て上げる「家プロジェクト」が始まるなど「アートの島」として知られるようになる。
そんな直島を含む七つの島と高松を舞台に今年7月19日から105日間の会期で、現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」が開催される。国内・国外から参加する多くのアーティストらの作品が各会場に展示される予定だが、直島では現代アートとは少し趣の異なるイベントが企画されている。
県の無形民俗文化財に指定されている直島女文楽である。語りも浄瑠璃もすべてを女性が行うというこの島でしか見られない伝統芸能を、芸術祭では、浜で興行が行われていた往時の姿に復活させるのだ。直島の文楽が発祥した場所である琴弾地の浜で、瀬戸内の海を背にかがり火をたいて公演を行うことになっている。現在、人形遣いの他、浄瑠璃(語り)と三味線を合わせた12人のメンバーが公演に向けて稽古に励んでいる。
三位一体の人形遣い
稽古は体育館で行われていた。他に仕事を持っている座員もいるので、皆が集まるのは夜の7時半になる。通常、公演が決まると週に2度ほど稽古を行うが、体育館を使えるのが9時までと、時間が限られているのでそう何遍も練習は出来ない。人形を動かす座員が、動きや立ち位置といった要所を確認する。
文楽の人形は一体を3人で操るのが特徴だ。頭と右手を操る「主遣い」、人形の左手は「左手遣い」、両脚は「足遣い」が操り、三位一体となってまるで人間が動いているかのようなリアルな演技を行う。
例えば左手遣いは、主遣いや足遣いの動きに合わせ、長い棒を右手で扱いながら人形の左手を動かす。奥女中の人形は着物の中に足がない。いかにあるように見せるかが足遣いの腕の見せどころ。動く時に裾をさばき、膝を立てることで、人形が歩いているように表現する。床に近い場所で足運びを担う足遣いが動きやすいように、主遣いは高下駄を履き、平均で3.5kmある人形の位置を高く維持する。三者三様違う動きをしながら、人形に自然な動きを与えるのだ。簡単そうに見えるのだが、これがなかなか難しい。
本番では、人間が目立たぬよう黒い衣装をまとうのだが、主遣いだけが顔を見せる。そんな主遣いの演技を見ていると、気持ちも相当込めているようで、自身が演じているかのような表情を浮かべていた。
元気な女性らが旗揚げ
直島町観光協会ボランティアの髙橋昭典さんの説明では、「文化文政の頃(19世紀初め)、島には間口23.4m、奥行14.4mの舞台があり、島の有志らで結成された一座によって歌舞伎が盛んに上演されていた」という。連日中国や四国、遠くは阪神方面からも観客が訪れ、港はその人たちの船で埋め尽くされるほど盛大であった。
島には歌舞伎についての資料はたくさん残っているものの、文楽の記録は皆無に等しい。鯛網の漁師が、漁が終わった打ち上げに、淡路から人形浄瑠璃(文楽)を呼んで、どんちゃん騒ぎをしたという話が残っている他、明治6年に「デコ(人形の頭)」を買いに徳島へ向かった一行の船が小豆島沖で難破。人形遣い2人が命を落としたことで直島の文楽は廃れた、とあるだけだ。
「青木ツタさんと下津カツノさんという2人の女性が、14人の仲間と共にスタートさせた1948年を女文楽元年と考えていいと思います」
と髙橋さんは断言する。それより前にも文楽は行われてはいたが、女性だけの「女文楽」であったかどうかは記録が残っていないので分からないというのがその理由。岡山も高松も東京も戦後間もない焼け野原が残るその時代、食べるものもなく誰もが暗く貧しい生活を強いられていたそんな中で、元気に女性だけで文楽一座を立ち上げたのだ。
翌年、島の敬老会で旗揚げ公演を成功させた後は、京都や岡山、九州からも公演要請があり、一時期は年間25回も公演したという。1955年には県の無形文化財に指定され、直島女文楽は最初の全盛期を迎えた。
いざ、無形民俗文化財再指定
1960年頃から島は過疎化が進み、主婦らの文化活動も停滞気味になっていた。ちょうどその頃に一座を牽引してきたツタさんとカツノさんが相次いで亡くなった。女文楽を絶やすまいと、若手が維持保存に奔走するが、悪いことは重なるもので、1962年に女文楽は県の無形文化財が解除され、有形民俗文化財指定のみとなった。つまり、かつての歌舞伎の衣装をリメイクした人形衣装は立派だが「芸はそれほどではない」と宣告されたに等しかった。
この後、若手の中心的な存在であった織田マサ子さんが座長となり、無形文化財の再指定を目指して一座は稽古に励んだ。が、厳しい練習を続けたために、耐えられず辞める人が続出。20人を超えていた座員も、一時は7人にまで激減した。女文楽は最大の危機を迎えたのである。
「救いの神っているんですね。ちょうどその頃、珍しいということで全国のJR各駅に直島女文楽のポスターが貼られました。これがきっかけで知名度がグンと上がったんです」(髙橋さん)
以降、水準が高く繊細な演技が認められ、1984年に念願かなって無形民俗文化財に再指定された。2000年には、それまでテープに頼っていた浄瑠璃と三味線が加わって、名実共に人形浄瑠璃一座となった。織田座長を中興とするならば、現在は第三の全盛期。前座長の隅田美知子さんは若手座員を迎え、女文楽に新しい風を送り込んだ。
現在、一座は直島女文楽の保存伝承に努め、これまでにも増して公演活動に力を入れる一方で、前述した芸術祭での公演に向けて、今日も精を出している。
2010年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)
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