色褪せない存在感を示し続ける美しくも優しい石のぬくもり - 宇都宮
足下掘れば、すべて大谷石
宇都宮の街中を散策してみると、所々で石造りの蔵を目にします。市内から、日光や鹿沼など郊外へと向かう街道沿いにもやはり石の蔵が点在します。
「どうしてこうも石蔵が多いのか」
以前から気になっていましたが、今回の取材で謎が解けました。宇都宮市内で豊富に採掘される石で造られたものだといいます。
栃木県は全国屈指の凝灰岩の生産地で、中でも宇都宮市の大谷地区は石の産出量が最も多い場所。ここで産出される石は、地名から「大谷石」と呼ばれ、その名は栃木県における凝灰岩の代名詞にさえなっています。大谷を中心に東西12km、南北36kmという広い範囲にわたって地面の下に岩盤が存在し、そのすべてが大谷石。市の中心部であるJR宇都宮駅の真下にも大谷石の層が走っているといいます。
「2000万年前、この辺りはまだ海の底で、海底火山の爆発によって火山灰が堆積。それが隆起して出来たのが大谷石です」と説明してくれたのは、NPO法人大谷石研究会の高橋啓子さん。
高橋さんから手渡された青みがかった一片の石は、ザラザラとした粒子の粗い手触り。ところどころに茶色の異物が混じっていました。青っぽいのは採掘したてで水分が多く含まれているためで、月日が経つと酸化作用で茶褐色を帯びてきます。茶色い異物は「ミソ」と呼ばれるもので、石の間に挟まった木片などの有機物が変色したものです。手でほじくり出すことが出来るくらい柔らかいので、時が経つとミソがあった部分はただの穴になってしまいます。一般にミソが多い石は良質ではないと言われますが、そのくらいの方がかえって強度があると高橋さんは話します。
柔らかく加工しやすいだけではなく、簡単に手に入ることもあって、大谷近隣では、塀や門柱、蔵に鳥居にお墓まで、さまざまな構造物の材料として大谷石が用いられてきました。
関東大震災で一躍有名に
この地で大谷石が古くから使われてきました。切り出しと加工が容易であったこともあり、古くは古墳の石室や石棺の材料にも使われています。本格的に大谷石が建築資材として利用されるようになるのは江戸時代に入ってから。宇都宮城改築の際の土止めや堀割、橋などに使用されました。
江戸中期には、大谷石の評判が江戸市中にまで届きます。「火事と喧嘩は江戸の華」と名物に挙げられるほど火事の多かった当時の江戸では、耐火性に優れる大谷石が火災予防の建築資材として大いに重宝がられました。関東平野を北から南へ流れる鬼怒川を通じて、随分多くの大谷石が、江戸方面へと運搬されていたようです。江戸湾に注ぐ隅田川沿いには、大谷石を扱う問屋が、7〜8軒あったという記録も残っています。
明治期に作られた石蔵が二つ並ぶ「屏風岩」は大谷地区のランドマーク |
大谷石の名が一躍有名になったのは、意外なことに1923年9月1日に帝都を襲った関東大震災でした。マグニチュード7.9の大震災によって一面焼け野原となった東京の街に、大谷石建築である帝国ホテル新館(ライト館)だけが無傷で残っていました。設計者が、アメリカが生んだ20世紀を代表する建築家、巨匠フランク・ロイド・ライトだったこともあり、その評価は世界的に高まっていきました。
歴史を物語る採石場
高橋さんが採石場を案内してくれました。かつては石の層を垂直に掘り下げる平場掘りで石を切り出していましたが、現在は、石の層を真横から水平に洞窟を作りながら掘り進んでいく垣根掘りが主流。垣根掘りは、明治末期から大正にかけて伊豆長岡の職人から伝えられた採掘法で、採取したい石の層だけを掘り進められるため採石コストを抑えることが出来ました。また、石切の仕事は水が天敵。天候に左右されないという意味でも効果の高い採石法です。
垣根掘りを繰り返して出来た巨大な地下採石場跡。現在は資料館として開放されている |
垣根掘りを繰り返すと、必然的に採石場は洞窟になりますが、案内されたのは、大谷で唯一という平場掘りを中心に石を切り出す露天の採石場でした。
採石場ではちょうど石の切り出しが行われていました。地面に敷かれたレールの上を電動鋸がゆっくりと移動すると石に直線が刻み込まれます。刻み目に割矢と呼ばれる楔を打ち込むと底がはがれて、大地から大谷石が切り出されます。
「石目によってはうまくはがれない所もあります。下手に割矢を打ち込むと変な割れ方をして、石が2本採れるべきところ1本しか採れないことも。機械で切っているとはいえ、この作業だけは職人の手が必要なんです」と石切をしていた職人が教えてくれました。
切り出された原石1本の重さは約150kg。こちらの採石場ではこれを1日に200本切り出します。かつてはツルハシなどを使う手掘りだったため、1日に平均して12本を切り出すのがやっとでした。手掘りから、現在の機械掘りへ移行するのは1960年頃。宇都宮の大谷石は、効率と合理化を求めた大量生産時代へと突入していきます。
屋外から屋内へ
戦後、高度経済成長に伴って宅地や工業団地の造成が盛んになるにつれ、大谷石の需要は高まりました。1973年にピークを迎えますが、その後、鉄筋コンクリート建築の普及や人件費の高騰など不利な状況が重なって、大谷石の生産は次第に減少の一途をたどっていきました。大谷で石材を扱う会社は多い時で120社ありましたが、現在組合に加盟しているのはわずか10社。2004年のデータを見ると、出荷高がピーク時の13分の1にまで縮小しています。
「最近は、門柱や石塀に大きくて重い大谷石を使うお宅は確かに激減しましたが、平成に入ってからでしょうか、大谷石の使われ方が一変します。軽くて小さくより身近なものが求められるようになりました」(高橋さん)
代表的なものが内装資材だ。石肌のやわらかな風合いが好まれて、店舗やホテルの内外装、商品陳列や壁面貼石など装飾性が求められるシーンで使われるケースが増えています。セレブが通うというニューヨークの有名なすしバーでも、壁面に大谷石が使われていると聞きました。
石質が柔らかいだけに、石に連想される冷たさを感じさせません。ちょうど木と石の中間のような性質を持っているため温かみがあり、親しみやすい。そんな大谷石を宇都宮に住む方が、「近くにあると不思議とほっとする」と評していましたが、この感想にはちゃんと科学的な根拠があります。大谷石に約55%も含まれているゼオライトという成分は、癒やしの効果を発揮するマイナスイオンを大量に発生しているのです。しかも、脱臭効果があり、湿気や温度を調整してくれるといいます。なるほど蔵には最適なわけです。
2009年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)
コメント
コメントを投稿