荘厳華麗、そして堅牢。能登の地形が生んだ総合芸術品 - 七尾
地理的条件が決定づけたその意匠
細やかに彫り込まれた雲や唐草、躍動感のある竜には金が箔押しされ、その美しさについ引き込まれてしまいます。荘厳、華麗、そして堅牢。七尾仏壇の特徴を挙げるとすれば、この三つの言葉に集約されます。
七尾仏壇には、金箔加工や漆塗りなど石川県の優れた工芸技術が駆使されており、まさにこの地の美術文化を現した装飾芸術品だと言えます。二重破風屋根の荘厳な宮殿を中心に惜しみなく金箔が使われ、障子戸の緻密で幽玄な趣のある彫刻には輪島塗の流れをくむ漆塗りが施され、気品のある色彩と立体感に満ちた蒔絵には、きらびやかな青貝がたっぷりと使われています。
華麗である上に作りが大きいという点も七尾仏壇の特徴と言えるでしょう。仏壇の大きさを表すのに、「代」という単位を使用しますが、これはもともと仏壇の中に掛ける掛軸の大きさを表す単位です。30代から50代、70代、100代、150代、200代とあって代数が大きくなるにつれ仏壇も大きくなります。地域によって仏壇の寸法には若干の違いがありますが、50代の仏壇で3尺間用に相当します。能登地方の民家は大きな家が多かったので、仏壇も200代(6尺間用)という大きなものを注文する人が8割を占めていたといいます。しかし、最近の住宅は、襖どころか畳すらない家が多くなりました。それに仏壇が大きすぎて家の中に入らないという声も聞きます。
「かつての大家族時代とは違い、核家族が主流。だから今売れるのは小型の仏壇です。大きさも七尾仏壇の魅力なのですが」
そう話すのは、七尾市内で仏壇店を営む布辰巳さん。大きさの他に布さんが七尾仏壇の特徴として挙げたのが、他に類を見ない堅牢性です。この頑丈な造りは、能登という独特な地理的状況だからこそ生み出されたものです。
地震がきたら仏壇の前へ行け
大部分を山間部が占める能登は、昔から交通の便が悪い場所でした。
能登半島の中央部に位置する七尾は港町であったため、海上交通が発達していました。七尾市には、全国有数の高級温泉街として知られる和倉温泉がありますが、布さんが子どもの頃には、七尾港と和倉温泉を行き来する汽船が現役だったといいます。能登の幹線道路の全線舗装が完成したのは1970年に入ってからのことです。それ以前は、完成した華麗で大きな仏壇を陸路で運ぶには相当な苦労を要しました。整備された路を行く場合は仏壇を大八車に載せて運べばよいのですが、道なき道を行くには2人がかりで棒にぶら下げて担いだり、急な坂では1人で背負わなければならなりませんでした。だから七尾仏壇には、状態の悪い道での運搬に耐え得る頑丈さが求められました。
中村藤喜男さんの仏間に据えられた仏壇(写真上)は15年前に購入したもの。2007年3月に、石川県輪島市沖で発生した能登半島地震でも、びくともしなかったといいます。
「地震がきたら仏壇の前に行け」。七尾で暮らしていればよく耳にする言葉だといいますが、七尾仏壇が丈夫であることを示すエピソードです。
頑丈さを支える工夫はいくつかあります。まずは、二重鏡板構造であること。鏡板とは、本尊、脇仏の後にはめられる板のことで、他の地域の仏壇はこの部分が板1枚で作られますが、運搬時の強度を考慮して七尾仏壇は鏡板を二重にし、丈夫に仕上げられています。また、木地の主材料には、狂いが少なく耐久性に優れた能登特産の能登アテ(ヒバ)を使用。全国のどの産地の仏壇よりも「ほぞ組み」が多く取り入れられているのも大きな特徴です。釘を使わず木材同士を組み合わせるほぞ組みによって、構造体としての堅牢性が一層高められています。
正面から仏壇を見ると、左右にある柱が太いのに気付きます。このように要所の部材が太く、厚めに使用されているのも七尾仏壇らしさ。だから完成した仏壇は総じて重いのです。200代の仏壇で150kgにもなります。現代に継承された匠の技
堅牢性を高めた構造や、特有の装飾など、七尾仏壇には他の地域には見られない優れた技法や技術が随所に取り入れられています。七尾仏壇は、1978年に伝統的工芸品に指定されましたが、今日まで七尾の伝統産業として継承されてきた理由の一つは、能登の国に多くの顧客がいたためだと考えられています。
能登は加賀と同じく、古くからの真宗王国。農村や漁村に暮らす信仰心の厚い人々によって仏壇産業は支えられてきました。道なき道を通ってでも仏壇を運んだのは、こうした人たちが国中に大勢いたからです。また、七尾は古くから能登の政治、経済、文化の要所だったことから、販路拡大の拠点でもありました。北前船が立ち寄る港があったため、七尾仏壇はここから海路で遠隔地へ運ばれました。1940年頃までに、ニシン漁業で活気のあった北海道へ大量に販売されていました。
また、仏壇の部材を作る専門職人が街に集まっていたことも仏壇産業が発展した理由の一つ。仏壇作りは分業です。木地師に彫刻師、塗師、蒔絵師、金物師などの職人がすべてそろって初めて1本の仏壇が完成します。
ルーツをたどれば、室町時代に能登国守護の畠山満慶が蒔絵や彫刻などの工芸産業を保護、奨励したことに始まりますが、仏壇製造が産業として根付いたのはもう少し後のこと。後に加賀百万石を一代で築く前田利家が1581年、七尾に城を与えられ一国の大名となると、港町は城下町へと姿を変えていきました。町割で新たに区画整理された場所には、そこに住む人たちの職業に合わせた町名が付けられました。塗師町通りや木町、大工町といった職人街が江戸初期には既に形成されており、寺社の建築や修復、仏具の製造などを行う中で、いつしか仏壇を手掛けるようになっていきました。数々の資料から、七尾仏壇が世に登場したのは、17世紀中頃と考えられており、以来3世紀もの歴史を歩み今日に至っています。職人さんの仕事場をいくつか訪ね、継承された匠の技を拝見しました。
複雑な装飾物を形作る彫物師は、硬くて繊維が細かいイチョウの木に向き合って、300本はあるという彫刻刀の中から最適な1本を選び出し、巧みに操り彫刻に生命を与えるかのような仕事をしていました。蒔絵師は、自ら描いた下絵をもとに仏壇の引き戸に蒔絵を施し、金物師は厚さわずか0.6~1mmの真鍮に自作したたがねを使って唐草模様を刻み込みます。
木工、 彫刻、漆工、箔押しといった技術が駆使された装飾品が組み立てられて初めて1本の仏壇が完成します。この匠の技の結集こそ、七尾仏壇が「伝統工芸の集大成」「総合芸術品」と称されるゆえんです。
2009年取材(写真/田中勝明 取材/砂山幹博)
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