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1月, 2022の投稿を表示しています

やわらかな和紙の肌合いに包まれた光のオブジェが、うだつの町に - 美濃

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うだつと和紙の浅からぬ縁 夕方5時半、路上に並んだ作品が一斉に点灯すると、通りを行く人々からドッと歓声が湧きました。伝統的建造物群保存地区に指定されている通称「うだつの上がる町並み」を、美しいあかりで彩る「美濃和紙あかりアート展」の幕開けです。火災の類焼を防ぐ防火壁うだつと和紙、美濃市が誇る二大名物が共演するこのイベントは今年で15回目を数えます。 中京圏はもちろん関西方面からも訪れる人々のお目当ては、やわらかな光を放つ美濃和紙で作られた照明作品です。思い思いに象られた独創的なあかりのオブジェは、夕闇の古い町並みと相まって幻想的な世界を生み出し、人々を魅了していました。 このイベントはもともと市政40周年事業の一つとしてスタートしました。最初は82点の展示作品に対し3000人が集まった程度でしたが、今では600点近いあかりアートを見物するために2日間で延べ13万人もの人々が訪れます。 岐阜県の旧国名である美濃で生まれたことから美濃和紙と呼ばれます。かつて「和紙といえば美濃紙」と言われるほど世に知られた紙で、薄くて丈夫、繊維が均等に絡み合い、すきムラがないことから主に障子紙に用いられました。 歴史は古く、奈良の正倉院に残る現存最古とされる702年の戸籍用紙が、美濃で作られた和紙であることが分かっています。現在でも国宝や重要文化財となっている書画の修理に使われることが多く、文句なしの最高級品。これほど高品質の和紙を産出してきた背景には、美濃の国ならではの地理的な要因があります。 「そんなに山深くないので林業をやるほどでもない。かといって、農業を行うほど開けた場所もない。だけど質の良い楮と良質な水には困らなかったので、紙すきが一気に発展したのでしょう」 そう分析するのは、美濃和紙の里会館の市原俊美館長。和紙作りには、紙の原料となる楮をさらして漂白するにも、すき舟と呼ばれる大きな桶で紙をすくにも大量の奇麗な水が欠かせません。美濃市を流れる板取川は清流長良川の支流で、天然アユが生息する美しい川です。板取川流域の農家はこの恩恵に預かり、紙をすき、やがてこの地に和紙産業が根付きました。日本中から質の良い楮が集まるようになると、更に質の良い和紙を世に送り出しました。紙を扱い財を成した商人たちが築いた町家の屋根には、次から次へうだつが上がりました。裕福でなければ造れなかったうだつは富

人々を神代へ誘う、鎮守の森の神楽舞 - 浜田

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人々を饒舌にする石見神楽 あの話になると浜田の人たちは老若を問わず熱く語り出します。特に若者があまりに熱中するため、ある心理学の先生が不思議に思って、彼らの行動を研究し始めたといいます。 彼らを熱くするあの話とは、「石見神楽」のこと。島根県西部の石見地方と呼ばれる地域に古くから伝わる郷土芸能で、その年の豊作や豊漁を祈願し神々に捧げる舞です。江戸末期までは神職による神事でしたが、明治初期に氏子が舞うものとなり、これを機に石見神楽は大衆芸能への一歩を踏み出します。 石見地方の中心都市である浜田市には、この石見神楽を演ずる団体「社中」が50近くあります。子どもの頃から社中に在籍し、石見神楽に親しんできた亀谷利幸さんによると「鎮守の森の奉納舞として村々で舞われていた神楽が、1970年の大阪万国博覧会を機に大きな転換を迎えた」といいます。 多くの神社で伝統的な奉納神楽が行われる一方で、万博を機に神楽のイベント化が進みました。効果音や視覚的な要素が取り入れられた神楽は、誰が見ても楽しめる出し物となったのです。 「最近は、大ホールなどでイベントとして行われる機会が増えていますが、石見神楽の雰囲気を味わうなら、土地々々の神社で夜を徹して催される奉納神楽を体感するのがいちばん」 と亀谷さんは話します。 神社の秋祭りの前夜祭として夜通し舞われるのが本来の石見神楽の姿。神楽殿の客席に上がって、裸電球の下で見る神楽はなかなか趣があります。 とはいっても最近は、騒音の問題などで夜通し神楽が行われる神社はずいぶん減りました。それでもどの社中も夜の7時から午前2時頃までは神楽を舞います。夜神楽の独特な雰囲気を味わいたいという観光客も多く、町の小さな神社に観光バスが乗り付けてくることもあります。 10月25日、市街地から少し離れた佐野八幡宮で夜通しの奉納神楽が行われるというので見学してきました。 真夜中に響くエイトビート いつもなら午後10時から翌朝6時まで神楽を舞う佐野社中ですが、この日はアメリカからのツアー客などが入ったため特別に2時間前倒しで奉納神楽を舞いました。最初の演目は、浜田では演じない社中はないと言われるほどポピュラーな「塵輪」。外国から大軍を率いて攻めてきた塵輪という翼を持った悪鬼を、仲哀天皇が退治するという話で、二神二鬼の4人による激闘が見どころです。舞子の身振りが大きくはっきり

寒風剣山おろしに揺れる、庭先の極太手延べそうめんを訪ねて - つるぎ

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「そうめん」か「冷や麦」か 第一印象は「そうめんにしては太い」でした。三輪(奈良県)や小豆島(香川県)、播州(兵庫県)のものと比較すると、確かに阿波徳島の半田そうめんは太いのです。特に決まった太さはありませんが、他の産地のそうめんが0.6mmから1mm未満なのに対し、半田そうめんの麺の太さは1.2mmから1.5mm程度。最も太いもので1.8mmもあります。 実際、この半田そうめんを「そうめんではなく冷や麦」と指摘する人もいます。日本農林規格(JAS)によると、断面の直径が1.3mm未満をそうめん、1.3mm以上1.7mm未満を冷や麦、1.7mm以上はうどんと定義されており、これによると半田そうめんは分類上では冷や麦、太いものにいたってはうどんです。正確には「半田冷や麦」という名で呼ぶべきなのでしょうか。 「6年程前に農水省に冷や麦と名を変えるべきだと指摘されたことがありましたが、江戸時代から続く名物ということでその案は却下されました。今では半田そうめんの名は登録商標となっています」 とは、半田そうめん組合の瀧原満さんの談。現在「半田そうめん」の名を使用出来るのは、その名の通り旧・半田町(つるぎ町)内で製造している事業所に限られています。 それにしてもなぜ麺が太いのでしょう。半田そうめんの起源には諸説ありますが、天保時代に吉野川河畔で農家の副業として作られたという説が有力です。製法を伝えたのは、吉野川を舟で行き来していた船頭たち。今の奈良県三輪町の三輪そうめんの製法がベースになっていると言われます。 「見よう見まねのにわか仕込みでは、そうめんを細く延ばすことは難しい。船頭の技術が未熟だったためにここのそうめんは太くなったようです」 と瀧原さんが話せば、同じくそうめん生産者である竹田厚美さんは、 「小麦粉の質の問題で太くせざるを得ないという事情もあったようです。でも、腰が強く、延びにくく、独特の食感を味わうことが出来るのはこの太さのおかげ」 と誇らしげです。 秋から冬にかけ、阿讃山脈から「剣山おろし」と呼ばれる寒風が吹き始めると、半田のそうめん作りはいよいよ最盛期を迎えます。 冬到来、青空に純白のそうめん 農閑期の副業として広まったつるぎ町のそうめん作り。一時は300軒程あった生産者も今では40軒。それでも年間25億円を売り上げる町の主要産業です。澄みわたった青空に白い

荘厳華麗、そして堅牢。能登の地形が生んだ総合芸術品 - 七尾

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地理的条件が決定づけたその意匠 細やかに彫り込まれた雲や唐草、躍動感のある竜には金が箔押しされ、その美しさについ引き込まれてしまいます。荘厳、華麗、そして堅牢。七尾仏壇の特徴を挙げるとすれば、この三つの言葉に集約されます。 七尾仏壇には、金箔加工や漆塗りなど石川県の優れた工芸技術が駆使されており、まさにこの地の美術文化を現した装飾芸術品だと言えます。二重破風屋根の荘厳な宮殿を中心に惜しみなく金箔が使われ、障子戸の緻密で幽玄な趣のある彫刻には輪島塗の流れをくむ漆塗りが施され、気品のある色彩と立体感に満ちた蒔絵には、きらびやかな青貝がたっぷりと使われています。 華麗である上に作りが大きいという点も七尾仏壇の特徴と言えるでしょう。仏壇の大きさを表すのに、「代」という単位を使用しますが、これはもともと仏壇の中に掛ける掛軸の大きさを表す単位です。30代から50代、70代、100代、150代、200代とあって代数が大きくなるにつれ仏壇も大きくなります。地域によって仏壇の寸法には若干の違いがありますが、50代の仏壇で3尺間用に相当します。能登地方の民家は大きな家が多かったので、仏壇も200代(6尺間用)という大きなものを注文する人が8割を占めていたといいます。しかし、最近の住宅は、襖どころか畳すらない家が多くなりました。それに仏壇が大きすぎて家の中に入らないという声も聞きます。 「かつての大家族時代とは違い、核家族が主流。だから今売れるのは小型の仏壇です。大きさも七尾仏壇の魅力なのですが」 そう話すのは、七尾市内で仏壇店を営む布辰巳さん。大きさの他に布さんが七尾仏壇の特徴として挙げたのが、他に類を見ない堅牢性です。この頑丈な造りは、能登という独特な地理的状況だからこそ生み出されたものです。 地震がきたら仏壇の前へ行け 大部分を山間部が占める能登は、昔から交通の便が悪い場所でした。 能登半島の中央部に位置する七尾は港町であったため、海上交通が発達していました。七尾市には、全国有数の高級温泉街として知られる和倉温泉がありますが、布さんが子どもの頃には、七尾港と和倉温泉を行き来する汽船が現役だったといいます。 能登の幹線道路の全線舗装が完成したのは1970年に入ってからのことです。それ以前は、完成した華麗で大きな仏壇を陸路で運ぶには相当な苦労を要しました。整備された路を行く場合は仏壇を

色褪せない存在感を示し続ける美しくも優しい石のぬくもり - 宇都宮

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足下掘れば、すべて大谷石 宇都宮の街中を散策してみると、所々で石造りの蔵を目にします。市内から、日光や鹿沼など郊外へと向かう街道沿いにもやはり石の蔵が点在します。 「どうしてこうも石蔵が多いのか」 以前から気になっていましたが、今回の取材で謎が解けました。宇都宮市内で豊富に採掘される石で造られたものだといいます。 栃木県は全国屈指の凝灰岩の生産地で、中でも宇都宮市の大谷地区は石の産出量が最も多い場所。ここで産出される石は、地名から「大谷石」と呼ばれ、その名は栃木県における凝灰岩の代名詞にさえなっています。大谷を中心に東西12km、南北36kmという広い範囲にわたって地面の下に岩盤が存在し、そのすべてが大谷石。市の中心部であるJR宇都宮駅の真下にも大谷石の層が走っているといいます。 「2000万年前、この辺りはまだ海の底で、海底火山の爆発によって火山灰が堆積。それが隆起して出来たのが大谷石です」と説明してくれたのは、NPO法人大谷石研究会の高橋啓子さん。 高橋さんから手渡された青みがかった一片の石は、ザラザラとした粒子の粗い手触り。ところどころに茶色の異物が混じっていました。青っぽいのは採掘したてで水分が多く含まれているためで、月日が経つと酸化作用で茶褐色を帯びてきます。茶色い異物は「ミソ」と呼ばれるもので、石の間に挟まった木片などの有機物が変色したものです。手でほじくり出すことが出来るくらい柔らかいので、時が経つとミソがあった部分はただの穴になってしまいます。一般にミソが多い石は良質ではないと言われますが、そのくらいの方がかえって強度があると高橋さんは話します。 柔らかく加工しやすいだけではなく、簡単に手に入ることもあって、大谷近隣では、塀や門柱、蔵に鳥居にお墓まで、さまざまな構造物の材料として大谷石が用いられてきました。 関東大震災で一躍有名に この地で大谷石が古くから使われてきました。切り出しと加工が容易であったこともあり、古くは古墳の石室や石棺の材料にも使われています。本格的に大谷石が建築資材として利用されるようになるのは江戸時代に入ってから。宇都宮城改築の際の土止めや堀割、橋などに使用されました。 江戸中期には、大谷石の評判が江戸市中にまで届きます。「火事と喧嘩は江戸の華」と名物に挙げられるほど火事の多かった当時の江戸では、耐火性に優れる大谷石が火災予防の建